「親殺し」は仕方ない
殺人のニュースはどれも例外なく心を暗くさせるものだが、その中でも唯一「被害の理不尽さ」についてはそれほどでもないと感じる分、他の殺人事件よりは心が暗くならないという殺人が「子供による親殺し」だ。
「子供による親殺し」は、逆の「親による子殺し」に感じるほどには、やりきれない陰惨な苦しさは感じない。
自業自得だと思うからだ。
殺されて人生を奪われるのは理不尽だが、我が子に殺される場合に限っては仕方ないよな・・・という気がしてしまうのだ。
なぜなら、もともと子供は生まれたときから親を好きなものだから。
親は自分が産んだ子供を好きとは限らないけど、子供は生まれた瞬間から親を好きだ。
そんな「絶対的に親が好き」が親に対する感情の出発点だった子供が、その大好きであるべきはず(あったはず)の親を殺す。
それは、そこに到るまでにそれだけの理由が、よほどの理由が積み重なった以外にないだろう。
悲しいことには違いない。事件が抱える悲しさにおいては、あらゆる “憎しみによる殺人” の中で一位かもしれない。
殺しは悪いことだってのも変わらない。
でも、なぜか私はホッとする。
その子が、自分が殺される前に相手を殺したことに。
だからすべての親は、自分の子供に殺されるなら仕方ない。
きっと、そうされるだけの理由があるのだ。
私もそう。
私ももしかしたらいつか息子に殺されるかもしれないが、そうなったらそれは仕方ないと思う。
息子が私を殺したいと思うまで憎み、実際に実行したとすれば、それはそこまでするほど長い間私が原因で苦しみ、私のせいで傷ついてきたということだ。
私は息子に対して申し訳ないとしか思わないだろう。
子供が親を殺したとき、恐らく詫びるのは親の方だ。
殺人を犯してしまえば少なくとも、「普通の人の普通の幸せ」はもう決して得られないのだから。
そんな恐ろしいことを犯させてしまった対象が、原因が、張本人が、他ならぬ親の自分であるなんて。