願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

「表現の自由」は「思想の自由」と違って無限じゃない、なぜなら…という話。

見たくもないのに連日報道されるので目にしてしまう韓国の対日情勢には腸が煮えくり返って焦げて穴が開いているわけですが(現在の私の個人的な感情です(o^-')b☆)、そんな個人的な感情の発露はちょっと置いておいて、表現の自由」という言葉について思ったことを書いておきたい、という記事です(´ρ`)

 開催中の芸術イベント「あいちトリエンナーレ」で脅迫を受けたため展示を取りやめたという話で物議を醸している例の少女像については「表現の自由」の範疇に入るのではないかと(忌々しく思いながらも)私は思っているのですが、例えばヒトラーなんかに関しては割と規制されていますよね、そういうのはどうなのか、ああいうのは「表現の自由」の制限ではないのか、ということを思い、同じように思っている人がネットでもちらほら見かけられたので考えてみた次第です。

結論を書くと、アリかナシかで言えば表現の自由」に制限は「アリ」です( ´_ゝ`)

なぜなら、社会的動物である人間の「自由」にはその「自由度」とでもいうようなものに無限から規制までランクがあり、そのランクによると「表現の自由」は中間に位置しているから、です。

まず、無限に自由=制限が全くつかないレベルで自由なのが「思想・思考の自由」ですよね(´ρ`) これは私の「心は自由」という信念の前提となっているもので、心で思うだけ、頭で考えるだけ、なら何を思い浮かべても自由ということ。何人もそれを規制されることはないし、規制されてはいけない。
私がマインドコントロールの一種だと捉えている宗教にアンチ的態度なのもここが理由の一つ。

反対に、「規制される自由」の最たるものが「行動の自由」です。
社会で集団で生きるヒトという生きものにとって、「行動の自由」にはたいてい「他人に危害や迷惑をかけない限り」という制限がついている。
国や地域によって細かい法律は異なるものの、他人に危害を加えたり、他人の大事なものを盗むことが奨励されている国はないわけで。身体は自由でも、行動には制限が厳しくついてまわる。

じゃあ表現の自由」は?(゚Д゚)

どこに位置している「自由」なのか、というと、中間くらいなんじゃないかと思うんですよ。

ある程度は自由。でも、社会的動物であるヒトという種にダメージを与える可能性がある場合には規制される、という感じ。
暴力的・性的な表現の年齢規制や、ヒトラー礼賛の規制なんかもこれであって。
その「表現」に触れ影響を受けることによって、他人を殺したくなったりレイプしたくなったり、選民思想にかられて特定の人種を絶滅したくなったり、という衝動が行動に転化するきっかけとなりかねない。そしてそれは間違いなく人類に良くない結果をもたらすわけですよね。
じゃあ規制するよ、っていう、ただそれだけの話であって。

私思うんですが、人間も単に動物の一種だということをもう少し当たり前のこととして認識した方がいいんじゃないかと。

人間てそんなに理性的でも論理的でもない。
ただの動物の種。だから自分が生き残ることが最善だし、性的欲望もあれば自分さえよければいいところもあるし、見慣れないもの・気に食わないものは攻撃・排斥したいし、他人を蹴落として自分が上に行きたいし、そういう性質は善悪とかとは別のところにある「動物としてのヒトの本能」だと思うんですよ。
だからこそ、それなら、種として危ない方向に誘導する可能性のあるものは規制する、それは当たり前の話であって。

表現の自由」とか言うとなんかすーぐ高尚なところの話に摩り替えがちだけど、もう少し自分たちがただの動物だということを自覚しようよ、と思う、という話でした(´ρ`)アホホ

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心は自由だけど、その「心で思ったこと」を現実に起こすきっかけって些細なものだったりするから。いいことでも悪いことでも。
そこを完璧に切り離して抑えられるほど人間は理知的でも強くもないと思うのですよ…。




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