願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

殺人と数

本当に書きたいことを思ったままに書き過ぎると自己嫌悪に陥るし、だからとダーク要素はぼやかして明るい感じの内容にすると嘘を書いている気がして自分の中でブログを書いている意義を見失ってくる。
バランスなのだろうけれど、バランスを取ろうとすること自体が不自然な努力にも思える時はどうすればいいのか。

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それでも「世間」とそうズレがない時はまだ幸せなのかもしれない。
喩え過激な言い方であっても「悪人には厳しい制裁を」「キチガイを規制する法律を」なんかの主張はその表現が多少違っても多くの人が持っている感情だろうし、書く側としても気は軽い。

気が重いのは、例えば今回の「ネットで知り合った自殺願望者9人を殺害した事件」のように世間と私の「受けた印象」が違うようなことだ。
特に人の命が絡んでいる話、何の罪もない被害者が存在する話は、それを軽んじているように思われそうで正直に感じたことを書くのは気が重い。

でも書くことにする。

ただし、受けた印象が違う、と言ってもこの事件が殺人なのは変わらないし、自分の「殺したい」欲求のために人の命を奪った殺人者を擁護する気はもちろんさらさらない。

私が連日の報道にどこかモヤッとしたものを感じるようになったのは、「結局は数」なのか、というところだった。
人殺しに数は関係ない。やはりそこが私の正直な気持ちなのだなぁと改めて思った。

私からすれば、自殺志願者を9人も殺害したこの犯人よりもベトナムの女の子を攫って殺した町内会長の方がよほどクズ度は上(※あくまで「クズ度が上か下か」であって殺人という罪の重さの度合いが上か下かではありません)で、死刑の仕方がそのクズ度によって決まるならより重い「市中引き回しの上獄門」とか「四肢を牛に引かせるリアル八つ裂きの刑」とかであるはずだと思っている。(もちろん今回の犯人も私の中では死刑は確定である)

そう、もう刑の重さは「クズ度」で決められるべきだと私は思っている。

だから、今回の9人を殺した犯人を擁護する気は1ミリもないが、刑の重さが殺した人数で決まるとしたらそれは納得できない。
身近にいる幼児や妊婦を狙ったわけでもない、一応「死にたい」と願ってそれを表明している学生を募って手にかけた殺人者と、見守っているふりをして自分の学区の幼い児童をさらって殺したキチガイ町内会長と、せめて100歩譲っても罪は同じ重さであるべきでしょう。

少なくともどちらも死刑を求刑されるべきでしょうよ…

また、逆に被害人数が多くなればなるほど(=犯人の犯行の印象が強くなればなるほど)被害者一人一人の被害の重さの印象が薄れるということもあって、それも許せない。殺されたのが例えば10人、100人であっても、犯人の異常性だけが取り上げられイメージとして強大になることは許せない。10人、100人の被害者には一つ一つ同じ重さの命と人生がある。それを奪ったことは人数に全く関係ない。
他に何人も同じ犠牲者がいたとしても、そんなことは亡くなった方の遺族には全く関係ない。何の慰めにも溜飲が下がる話にもなり得るわけがない。

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結局、今回の犯人と犯行に対してどうこうとかその報道自体に違和感ということではなく、「殺したのが1人だけだとどんなにクズで卑劣で鬼畜な殺人であっても殺人事件としては低く見られてしまう(刑法上でも報道的にも!)というのが許せないという気持ち」が、今回の事件の報道に接していると湧き出てきてモヤモヤするのだなぁ…、と思った次第です。単にそれだけなのですね。
以上です。