願わくばまんまるく、徒然。

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「障害者は邪魔、社会に不要」という主張は「障害者を受け入れない社会は不完全な社会である」ということを分かっていない

以前↓こちらの記事でちらっと書いただけのことなんですが、

 

 

私の中ではかなり大きな信念でもあることなので、改めて書いておこうと思った、という記事です。
記事タイトルの偉そうな断定口調には他意は全くなく、単純に私の思ったことをそのまま文言にしたらこうなっただけなのであまり気にしないで下さい(´д`)クダサイ…

 

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私は見てないんですが、障害者を取り上げたテレビ番組への感想として「障害者は要らない、邪魔」「生産性のない障害者はこの世から排除すべきだ」という見出しを見て、定型的に暗い気持ちになると同時にこいつらあったま悪ぅい(´∀`)☆という、こっちの方がずっと頭の悪い反応をした…というね。



「障害者は社会に不要」と言う時のその「社会」とは一体何を指しているのか、と思う。
それは恐らく現代社会、もっと言えばその人の関係する範囲の狭い「社会」のことなのだろう。生産性のない障害者の生活を助けるために自分の税金が使われていると憤る人にとっては日本と言う国であり、自分の前に並んだ障害者が歩くのが遅くモタモタしているのが邪魔だと感じる人にはもっと狭く、せいぜい自身が生活している自治体だろう。

視野が狭い。

そもそも私が不思議なのは、障害者を排除しろといきまく人々は自分自身が事故や病気で障害者になる可能性を考えたことがないのだろうか、ということ。
多様性を受け入れない社会は、いつか自分自身を排除するかもしれない、とは考えないのだろうか。
姥捨て山なら年寄りが邪魔だとぽんぽん捨てておいて、自身が年老いて捨てられる側になってから残酷だと騒ぐのだろうか。

この想像力のなさは何なのだろう。
少し前は「アスペ」とネットでは罵られていたような空気の読めなさとも違う。絶望的な「共感力のなさ」とでもいうようなもの。
社会階層の分断が根底にある気がする。自分より下の階層に暮らす人達のことは一切知らない、分からない。

障害者や性的マイノリティーは「多様性」の象徴の一つだけれど、特に障害者が住みよいかどうかはその社会の「思いやり度」を一番図る物差しだと思っている。
性的マイノリティーは "心理的な" 社会的弱者だけれど、障害者は物理的にもハンディのある社会的弱者だからだ。
「思いやり」のない社会はまさに今の日本がそうなりつつあるように、荒み、壊れていく。
本来の社会階層で一番の「弱者」である子供が生まれなくなっていくのが自然に現れるその証として一番顕著なものだと思う。

障害者を受け入れない社会というのは「弱い者」を受け入れない社会だ。
「(実は既に出来ている、)階層」によってその理由は多少異なっているとは思うけれど、それが不完全な社会、欠落した社会であることは感覚として分かるはずだと思う。
いつ自分自身が排除される側に回るかもしれないという潜在的な恐怖は自覚なく人の心を荒ませていくはずだ。

早く気付いてほしい。

障害者を受け入れない社会、弱者を排除する社会、は「弱さを否定する社会」ということだ。
けれど、そもそも人間は「弱さ」を含んだ生き物であるはず。誰でも、心が傷ついたり落ち込んだり、病気になったり、怪我をしたり、簡単に死んだりもする。障害者を排除しろと主張する人たちもここは当たり前だと思うだろう。
なのに、社会としては「弱さ」を否定する。それを否定することは実は「人のもともと持つ弱さ」、ひいては「人間そのもの」を否定することと同じなのに。



ここからは、私が生物が生き残っていくために一番重要なものは「多様性」だと思っている話をします。

ある種類の生物が絶滅しないようにするなら色んな性質を持った個体が必要だ。寒さに強い個体、暑さに強い個体、乾燥に強い個体、湿度に強い個体…
ある一つの性質に特化した個体ばかりだと、その環境が変わった時に全滅してしまうから。種の全ての個体がその環境に適した性質になりすぎると因子がちょっと変わっただけで簡単に滅びてしまう。
最初は「メス」しかなかった生物の世界に「オス」という性別ができたのもそれが理由だと言われている。オスという遺伝子の運び手を生み出すことでメスだけだった生物は多様性を獲得した。

「遺伝子操作」と聞くと近現代になって話題に上るようになった分野という印象があるけれど、実は昔からされてきたことで。
大人しい性質の個体だけを何代も掛け合わせて温和で人に従順な犬種を作りだしたり、それぞれ寒さや病気に強い種を掛け合わせてどちらにも強い品種のコメを開発したり、遺伝子操作は経験に基づいた知識として昔からなされてきた歴史がある。
そして、一つの性質を特化させた種は天敵が現れると簡単に全滅するということも知っている。

遺伝子はその種が生き延びていくこと自体が存在目的で、種の個体は「遺伝子の船」だ。遺伝子を乗せた、遺伝子を次の世代に伝えていくための乗り物

遺伝子というのはまだ全てが解明されていなくて、人間の遺伝子の組み合わせや性質の発現過程などは一部しか分かっていない。(もし全容が解明されれば理論上は遺伝子情報だけでその人の容姿・知能・才能・性格・罹りやすい病気から健康寿命までが確率的に分かることになる…模様(´∀`)コワー)
一卵性の双子でも全く同一の容姿や性格にならないのは遺伝子が同一じゃないからだ。遺伝子のどの部分・どの組み合わせが「目覚める」かも違う。だから同じ親から生まれたきょうだいなのに一人には母方曽祖父に似た気質が見られたり、別の一人には父方の祖母と同じ才能が出現したりもする。
同一遺伝子のクローンとは違う。

遺伝子は多様性を好む。それはその方が生き延びる確率が上がるからだ。
遺伝子的に近い間柄で交配を繰り返すと、生まれる個体はどんどん弱くなる。「血が濃くなる」と良くない、というのは一般的に知られているが、それは遺伝子が多様性のない個体を良しとしないからかもしれない…(科学的知識がないので擬人化文章で逃げるという卑怯な方法(´∀`))

私たちは「未来の人間」として、過去、純血を重んじ多様性を排除したハプスブルク家のような一族の末路がどうなったかを知っている。血族結婚を繰り返し滅亡した、それが愚かなことだと分かるのに、障害者を排除しようとするのは種族として見れば同じことだと分からないのはなぜだろう。
ナチスのトンデモ優生思想を嗤う知識はあるのに(ありますか?)、障害者を排除しようとした部分だけは嗤えない知識のなさは一体なんだろう。
あったま悪ぅい。

多様性は無限だが地球は有限だということを思う。
地球の環境は変わり続けている。
種の保存を考えるなら、人は多様性を保持していかなければならないはずだ。
それを考えられない人たちは身勝手な自己保身の遺伝子が強いのだろうか。それとも地球上の総人口からもう十分多様性は存在しているのだから、自分たちの身近にいる「邪魔な」障害者は排除されてもいい、と考えているのだろうか。どっちみち利己主義の塊じゃないのか。淘汰されるべきはその人たちの方ではないのか?

社会的弱者・マイノリティーへの差別や攻撃に接すると、私はいつも漫画アーシアン(作・高河ゆん)を思い出す。
ネタバレするが、白い羽がトレードマークの「天使」という(宇宙人の)種族の中で主人公の孤児 ちはや だけが黒い羽を持つ "劣等種" として差別的な偏見を受けているが、実はちはやは天使の間に蔓延し始めていた不治の病・新型のガンへの耐性を持つ "進化した種" の一代目だった、というもの。
新しいものを見慣れない異形として差別し排斥しようとするのは、作中で高い知性と文化を持ちそれ故地球の人類を「監視」していると描かれているこの作中の天使も、現実の地球の人間も、全く同じです。

まだ解明されていないだけで、今は遺伝の弊害や障害とされている病気や症状に、未知の素晴らしい進化の因子が隠されているかもしれない可能性なんかも常にあると思うのですよ。

私は、多様性を放棄した社会は必ず滅ぶと思うのです。



タイトルの「不完全な社会」というのは実は言葉のレトリックで、自分で書いておきながら「完全な社会」なんてものは現実的には到達するのは不可能だと思う。
どんなに理想的な社会が形成されたとしても、そこに住む人全員が「この社会は完全だ」と感じることはないだろうし、もし感じたとしたらそれはそれで不完全な状態なんじゃないのか…という気がする。
人々が生き続け社会が生き続ける限り、社会問題は常に新たに生まれ続けるものであるはずだ。
その意味で永遠に「完全」な社会になることはないが、新たに生まれ続ける「不完全」な部分をじゃあどうやったら解決できるのか、そのつど考えて行動していくことで問題を解消し続けることはできる。

この記事では議論の便宜上「障害者」と一括りにしたが、各々の障害者が持つ「障害」は当たり前だがそれぞれ異なっている。障害の種類も様々だし、日常生活におけるハンディの重さも様々だ。その範囲は広い。私の身内にも足を痛めて数年前から障害者手帳を持っている人間がいる。
障害者の存在に否定的な主張をしている人たちも、実は「その対象としている障害者」は少しずつ異なっているのだろう。

私も、「他人に危害を与える恐れのある」障害を持つ人間だけは危険なので保護・監視などきちんとした対策をとっていて欲しいと思っている。これは差別や偏見といった「風評被害」ではなくて、現実的な脅威に対する現実的な対応だ。
きちんと保護・監視されていて危害や犯罪を犯していなければ差別や偏見の気持ちを抱くことはない。

もし障害者を差別する感情が上のような「恐怖」から来ているとするなら、社会はそれについてもっときちんとした対策をとるべきだ。
それをしないために、「他人に危害を与える恐れのない」障害者が一律で差別される。

障害がある・なしに関わらず、社会の構成員は「その社会に参加したい意思のある者」とするべきだと私は思う。
障害に関わらず、危害や犯罪を平気で犯すような者に限ってその意思がないと見做すべきだ。
本当に社会に不要なのはそういう人間だろう。

私は博愛主義者でも何でもなくて、「全ての人間に生きる権利がある」とは全く思っていない。
すぐ上で書いたように差別されるべき人間はいる。ただそれは障害があったり、自分の性に一般的な感覚が当てはまらなかったり、弱かったり、する人間では決してない。