願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

近況~独り言

今の心境の独り言というかどーでもいい吐き出しです(´∀`)オヒマナカタノミドウゾ!

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コーヒー一杯の問題…とは何で見た言葉だったでしょうか…

 

しなくてはならない色んなことが毎日たてこみ、今後も予定がたてこんでいて二ヶ月ほどはこのまま追い込まれる予定。時間も体力も気持ちにも余裕がなく、荒んでいる。
そこに生来の不安気質が更にダメ押しで追い打ちをかける。
ずっと胃が痛くて、悪夢ばかり見る。

 
起きている間中余裕がなく、イライラしてどうしようもない。気分が落ち込んでどうしようもない。
むしろもう何も手に着かない。

その状態で、自分に対して「大丈夫、イライラして当たり前、落ち込んで当たり前、人間だから」「何もできない、何もしたくない、そんな日もある」「みんなそう。私だけがダメなわけじゃない」と言い聞かせてみた。

私は自分をなだめる言葉を心の中で言い聞かせるとき、涙が出る。
自分を肯定しようとすると、涙が出る。
今までそれについて何も考えなかったが、ふとなぜなのかと感じた。
今まで何の疑問も抱いてこなかったが、これは私だけなのだろうか。

私は最近「肯定力」とでもいうようなものも生まれつきの能力差があるんじゃないかと思うようになった。

自分を肯定する力が生まれながらに強い人・弱い人がいる。
強い人は、多少ぞんざいに育てられてもあまり揺らがない。でも、弱い人は育て方が合わないと腐る。私のように。

人は生まれながらに全て決まっている、と思うようになった。

努力は無駄じゃないが、努力できる能力と環境が最初からなければできない。そこは本人の力の及ばないところ。

作家の伊集院静がよく言っている「人が死ぬのはすべてその寿命だった(若くして病気や不慮の事故で死んだとしても、それはかわいそうなことじゃなく寿命を全うした、とと考える)」という考え方が「うーん、でもやはり本来健康で80そこそこまで生きられるのが寿命なんだから、自分の意志に反して生を終えることになったことはそれ自体はやはりかわいそうと言えるんじゃないのか」と思っていてずっとよく理解できなかったのだけれど、最近ようやく何となく分かるようになった。
うまくは言えない。

死ぬ時が寿命なのだ、という考え方がすっと納得できるというか、それは単に心境の変化なんだろうか。

私はずっと自分が死ぬことが一番恐ろしく、恐らく恐怖症(タナトフォビア)のレベルで死を恐れている。
それは「自分」というものの消滅への恐怖で、そのおおもとにあるものは「自我」「自分という意識」への強いこだわり、執着で、これがずっとあるので子供の頃からこの関連の恐れは特出していた。
身体が乗っ取られる、自分が自分でなくなる、記憶を失う…等々への強い恐怖感情から始まり、成長するにつれ心理学から哲学へ傾倒していったのはすごく自然なことだった。
「『自分』とは何か」。本当に「自分」とは一体何なのだろう。
何十億と人間がいて、なぜその中の一つの「私」にたまたま「私の意識」が入ったのか。この謎が一番知りたい。多分知れないw(´∀`)
哲学ゾンビという言葉を知らない子供の頃からその概念は私の中に当たり前にあった(そういう人は実は少なくないのでは?と思っている)。
いま私の意識のあるこの「私」だけが「生きて」いて、他人は意識がない。
或いは、私の心と同じくらい無限の深淵が、この地球上に何十億と存在している…と考えて眩暈を起こしそうになったり。

時間と空間の概念は実は逆だ*1、と知った時の驚きを思い出す。

要するに、「自分」は「他人」によってのみ定義されるということだろうか?

他人が存在しなければ、そもそも「自分」も存在しない?

唯一無二で存在できるのがつまり「(万物を創世した)神」ってことだろうか?

私は頭が良くないので、残念ながらある程度以上のレベルになるといくら考えても分からない(´・ω・`)…という悲しい自覚。
哲学指向でありながら知的能力は低いという厄介な性質(´・ω・`)

 


…という、今日の独り言。

 

 

 

*1:空間が変化して初めて「時間」という概念が生まれる。空間が一切変化しなれば時間は経っていないことと同義。