読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

傷があれば薬も沁みる(最近の世迷い言3)

心を癒したり解放してくれるはずのものに、苦しくて辛くなることがよくあります。
私はそれでよく泣きますw

f:id:manmaru14:20161111215251j:plain

 

私の心にある「原風景」、私の感情の「核」となっている記憶は昔のもので、今は存在しません。
私は「そこ」に帰ることもできなければ、「それ」をこの目で見ることもできません。物理的な接触はもう二度と不可能です。
だから私の心の中か写真の中にしかないそれを思い出し、よく泣きますw

(どうでもいいことですが、私がもし狂ってしまった時にはその幻の中に閉じ込められるんだろうなーと思います。そう思うと認知症統合失調症も恐怖が少し薄れる。)

好きだったものに再会し、好きだった気持ちを取り戻してしまった時、絶望にも似た哀しみが胸を襲います。
私の後悔は、この気持ちを自分に許してこなかったことだ、と思うのです。

いつも、一番好きなものを選ぶことを自分に許さなかった。
間接的に親のせいとも言えるけれど、本来私の性質がそうだったんじゃないか。

一番好きなもの・一番好きなことをする、そのために生じるリスクを一番恐れる性質だったから。
(私は石橋を渡らないタイプ。※衝動的勢い以外で

一番を選んだら、それが失われた時のショックに耐えられないかもしれない。
二番目ならまだ大丈夫。

常に「本来選びたかったもの、じゃないもの」を選んで今の私に到るのです。

「ここじゃない」
「これじゃない」
感がすごいのは当たり前ですなw(´∀`)

一番好きで選んだものがもし壊れても、それで一旦傷ついたとしても、人の心はきっと簡単には壊れない。
少し休んでまた好きなものを見つけていく。
本当に壊れるのは、好きなものを選んで来なかった、その代償の大きさに気付いた時だと思うんですよ。

私はそれで今結構辛いのですが、それでも仕方ないと思うところはあって。
もし時間を戻れたとしても、結局今までと同じ選択をするしかないんだろうな…と冷静に思うのです。
選択した背景・前提の環境が変わるわけじゃないのだから。

だから、もう一回生まれられたらな…(´-`)と思ったんですよね(前回記事参照)。

次に生まれ変わるなら石に生まれたい、と固く望んでいた私からえらい変わりましたw

あ、ちなみにここ三回の記事で書いている昔とても好きだったものとかきっかけとか再会とかの表現の相手はもちろん人じゃないのです。その「光景」としてそこにいる人も含まれる場合もありますが、昔好きだった人とかでは全くないのですwww
人間に対する感情はそこまで強くないのです…もともと他人に興味がない(人間が好きじゃない)という本質的にダメな人間orz
このブログのタイトル部分にある小さい写真もその光景の一つだったりします(レンガでできた小道のような写真ですね)。
今はもうない、この世のどこにもない場所。

私がすべての執着を取り去りたいと強く願うのは、簡単な理由で、「自分が辛いから」なんですよね。
もう「無い」ものに私の心はまだあって、そちらに残っている。
私の性質としてそういう傾向が何でもあって、だから「今」を生きることがとてもしにくいのです。
どんな景色を見ても、「昔見たあの場所」に繋げてしまう。
どんなに季節が繰り返しても、風の匂いで一瞬で「あの日のあの場所」に意識が戻ってしまう。
夏の朝、冬の夜。雪の匂い。
嗅覚は記憶と最も強く結びついた感覚らしいですね。空気の匂いは残酷なほどに鮮烈。

何もかもに囚われているからこそ、何もかもを捨ててしまいたいと焦れるんでしょうねー。

手放せれば、楽になると信じている。

でもそうだろうか?

これから先の人生(があるとすれば)でまた心は気付いていくんだと思うのです。
それまで分からなかったことが分かる。きっと。
本当はそうじゃなかったんだ、って苦しむ。きっと。

いつもいつも最悪の人生と比べてまだマシだ、自分は幸せだと言い聞かせて生きて来ました。
最悪の人生とは、例えば戦時下で命をなくすこと。人殺しに大切な家族が奪われること。人権もなく思想も制限され、食べるものにも事欠くような生活。
モンスターに付け狙われ、執拗な被害を受け続けること。
例えば中世のヨーロッパ。いつ魔女だと言われるか分からない。理不尽で残虐な拷問を受けて死ぬこと。
事故や災害で命を落とすこと。
恐怖と苦痛のうちに死んでいくこと。
強制収容所での処刑。…

そんな状況に比べれば、私は、恵まれすぎている。
至福の極みだと思わなければ何なのだろう。
不平や不満を感じるなんて間違っている。…

いつもいつもそう思って、自分が不幸だと、辛いと思うのは間違っていると思って生きてきた。

いつも、自分の頭で考えられる限りの「絶対にそうなりたくない状況」と比べて自分の気持ちを納得させてきた。
生まれてすぐに重い病気で命を失くす子供がいる。その子が私だったら?どんなに生きたかったと思う?
例えばユダヤ人であるというだけで、その民族であるというただそれだけの理由で、理不尽に命も尊厳も奪われたホロコーストの犠牲者たちの恐怖と無念と怒りと悲しみは?

私はここで無事に生き、食べ、温かく眠り、自由に平和に暮らせている、この状況は何と恵まれた環境なのか。…

↑このような思いを、私は普段からかなり真剣に抱いて過ごしていまして。
ただの喩え話とかじゃなく、普通の、等身大のリアルな感覚として、その恐怖心と不安感を肌に常に感じて心に持っているのです。(正直このあたりの感覚は漫画家福満しげゆきとまったく同じ感じ。病気を疑うレベル)

現実に今そこにあっていつでも起こり得る、或いはこの世界の過去に確かにあった、恐ろしい世界。
どちらも空想じゃない。確かな事実。

そこに「今、自分がいない」という幸運を、常に思わなければならないと。


たまたま私はこの時代のこの国に生まれただけで、恐ろしい世界から逃れられたのは、それは単なる運だった。
そう思って生きているのです。

これが「私のメメント・モリなのかもしれないけれど、それは、今のこの環境に合ったもっとシンプルな別の視点から見ると、「単にオマエはそう思い込まないとやりきれない(と感じている)人生を歩んでいるからじゃないか?」という。

「今ここにはない」起こりえない最悪の状況を頭に置いて、それと比較して幸せだと思い込む。
いつも下を見て下を見て歩いてきた。
ああなるよりマシ、ああだったよりもマシ…

最悪の状況仮定、最低の生活…それらを基準に置きすぎて、自分が本当に感じていることが何なのか分からなくなってしまっているんじゃないかなあとぼんやり思ったのです。

私が、夫も息子もいて(やや夫婦間不穏ながらw)とりあえずみんな健康で、それは本当に幸せなことで、それは間違いなく思っていて有難いと感謝しているのだけれど、「私の魂」が幸せだと感じていないのは、それは私が「私の魂の声」に従って生きて来なかったんだから、当たり前なんだろうと
魂が求めるものをことごとく無視して違うものを選んで生きて来たのだから、魂が満たされることはなく、極端な言い方をするとすっかり死にかけているのは当然で…。

それに気付いたのが40過ぎなんだからもう遅いわなあ…(´∀`)

(↑本当は人生に遅いことなんて何もなくて、自分の心一つできちんと取り戻せるものだと思うのです。ただそれは一般的に、という話で、あくまで私に限ってはここで書いているように私は感じる、ということなのです。このブログは基本的にそうなんですがこういう書き方の文章はすべて「私自身についてのみ」そう思う、という感覚で書いていることであって、私以外の人には当てはまらないというかそもそも関係がない話なので、どうか誤解なさらず(´д`;)不快な気持ちになったりされませんよう…)

冒頭に戻りますが、心を癒すはずのものに触れて胸が苦しく辛くなるのは、そこに傷があるからなんじゃないかな、と思ったということを書きたかったんでした。

薬がしみるのは傷があるから

薬をつけないとそこに傷があるかどうか知ることはできない。




…全然まとまっていなくて一体何が言いたいのかさっぱり分からないと思うんですが、とりあえずここ三記事に渡って書いてきた世迷い言は一旦終わりますです。はー続いた続いた。

 



●吾、四十にして道に迷う。という最近の世迷い言1、2はこちらw(´ー`)

 


 

広告を非表示にする