願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

「不謹慎」の地平の先に

熊本の地震にはひたすら早くおさまってくれと祈るばかり。
東日本大震災を思い出すが、震度5以上の大きな揺れがここまで何度も何度もというのはなかった。
どれだけ恐ろしいか、どれだけ不安か、想像を絶する。


どんなに想定しても想定外というものが起きる可能性があるのが自然災害で、そう思うと何もかもある程度は仕方ないのかもしれないが、それでも人間として常に最大限できることはあると思うわけで。
本来想定している拠点や人手が使えなくなった時も想定しておいて欲しい…と、大量の支援物資が届いているのに仕分けと運搬が進まず、の混乱を見て強く感じた(今回の地震の被害地域に対してだけじゃなく)。五年前にあれだけの震災があったばかりで、支援物資の混乱や避難所でのプライバシーや指定以外の避難場所問題や何やかんやの問題が浮上したのに、それから何も進んでいない。
自治体によっては現実的に切迫した理由(調査により近々噴火や地震などの災害が予測できる等)がない限りなかなかそこまで手が回らないということもあるのだろうが、少なくとも東日本大震災と今回の地震で、東から西まで大きな地震が起きない地域は日本にはないのだという危機意識を全国の人たちが改めて実感するきっかけになってくれたら…と願っている。
もちろん私自身も例外じゃなく。

それにしても、避難場所で苦しい生活を強いられている人達の疲れと不安はどれほどか。早く何とかならないものか。指定避難所には物が届いて、指定外の避難所には全く届かないなんて話を聞くと涙が出そうになる。
電気なんかはほぼ復旧したそうでボランティアの受け入れも開始されたようだが、依然どんなに困っている人がいるだろうか。お腹を空かせて泣く子供もまだいるだろうし、赤ちゃんを抱えて全く休めないお母さんもいるだろう。余計な手を煩わせないようトイレに行かないようにして水分を控えて体調を崩す高齢者もいるだろう。ペットと一緒に逃げたことで避難所に入れない人もいるだろう。
誰も悪くないのに、間違いなく現場の誰もが誰もを助けたいと思っているはずなのに、うまくいかない。未曽有の災害なのだから、人を超えた能力でもない限りある程度はどうしようもないのかもしれないが…。胸が痛む。
本当に早く元の生活に戻れますように。

ところで、「こういう時に不謹慎」という感覚。
この感覚それ自体はもともと思いやりの気持ちから発生したものだと思う。相手が悲しんだり苦しんだりしている時にこちらの楽しんだり喜んだりしている姿を見せるのは忍びない、という気配りが根底にある気持ちだと思うんだよね。その気持ちは本来良いもののはず。
ただ、この国の民衆の悪いところで、極端に走ってしまうんだよね。まあそれを煽るマスゴミが悪いところもあるけど。
言葉狩りもそうだけど、何が不謹慎か、使うべきでない言葉か、するべきでない表現か、は、個人で違っているものだと思う。
それを一律に規定しようとするからおかしなことになる。三島が危惧した全体主義というのはつまりこういうことだよね。

不謹慎かどうかは個人の感覚でいいわけだが、そこに「でも、この人は自分が感じる意図でそうしたのではないかもしれない」と考える余裕が成熟した大人の社会では必要であるわけで。

最近のネットを見ていると、自分が不快に感じるからこれは間違ってる、という「自分の快・不快」がそのまま正誤・善悪の判断基準になっているという人がとても多い。
「自分の不快」を拒否理由にすること自体が悪いんじゃなくて、「自分が不快なだけ」なのにそこにこじつけで論拠をくっつけてくること、が悪だと思う。
「これはダメだ、嫌いだ」と感じること自体は人の心の絶対的権利とでもいうようなもので、それはどんなことであっても自由だと思うんだよ。
でも、それを正当化しようとして無理矢理合理的な理屈をひねり出してくると良くない。特に、その癖が高じて無意識にそれを行うようになると、本人に「自分の感情を正当化するためのこじつけをしている」という自覚が一切なくなって始末に負えなくなる。
自分の個人的感情を普遍的な正しい感覚だと信じ切ってしまうから、他人への押し付けとそれを受け入れない相手への批判や攻撃が激化しやすいんだよね。

例えば、私が言われて大嫌いな言葉に「それはやめた方がいいと思う」というのがあるんだけど、なぜこれが嫌いなのかというと、この言葉を言う人っていつも「ただ自分が個人的に嫌なだけなのに、それを世間一般の代表・正論の代理人みたいな顔で巧妙に隠してくる」から。
本来「私は嫌だからやめて」「私は不快だから私の前ではしないで」と言うべきだと感じることがほとんど。
なのに、そういう人たちは皆「別に私が嫌だと思って言っているわけじゃなく、それは人間としてどうか・世間的にはどうかと思うよ」みたいな言い方をしてくるんですよね。「私は別に嫌じゃないんだけど」みたいな感じに。
いや、絶対お前が嫌なだけだろ(゚д゚) っていう。
「私も嫌だし世間的にもどうかと思う」という言い方なら「後半は余計なお世話」で済むけど(前半は尊重したい)、「あくまで一般論を言っている。正しいことを言ってあげている。自分は特に思ってないんだけど」というスタンスには非常に臭いものを感じて反吐が出る。

で、ちょっと話が逸れましたが、その何でもかんでも「不謹慎」「自粛しろ」っていうのはまあ以前から私が嫌いなものだと書いている「考えなし」「思考停止」の一端だなーと思ったわけです。
そもそもね、明確に「悪いこと」だと決められないから「不謹慎」という言葉になるわけで、その基準は極めてグレーであるのが本来なはず。

自分にとっては不謹慎に感じることでも、そうでない人にとってはそうでない「かもしれない」と考えることは、大切なことだと思うんですよ。
自分の心が自由であるように、他の人の心だって同じように自由であるはずなわけです。

例えば今回、藤原紀香のブログが「火の国の神様~」みたいな文章で叩かれたみたいですが、あれにカチンと来た人がいてもちろんいいわけで。でもあの表現を紀香(なぜか呼び捨て)が本当にどう思って使ったのか、は分からないですよね。
考えなしにただかっこいい言い方をしたくて軽率に書いて叩かれたというところもあるんでしょうが、でもまあ彼女は恐らく単純に心から「あの土地の神様、助けてください」という思いでああ書いたんだと私は思ったんですよね。
「もうやめて」的な言い方が「震災が天罰」と言っているようでそれが悪いという意見も見たけれど、それも「彼女がそういう意図で書いたわけじゃないくらい分かるでしょ?」って言いたくなる。「あまり頭の良くない人がただ単純な善意で深く考えず書いただけ、ってほんとはみんな分かってるんでしょ?(´д`)デショ?」って言いたくなるわけでね…(さりげなく多大に失礼な文章)。私紀香全然好きじゃないけど。
ああいう表現が鼻につく、腹が立つ、不謹慎だ、と感じるのは自由で、それで「紀香嫌ーい!ヽ(`Д´)ノキライ!」となっていいと思うんですよ。でも、多分本人は思ってもいない「不謹慎」を掘り下げてそこにこじつけて「だからこの批判は正義!」みたいな論調で叩くのはなんか気持ち悪い。

しかし、こんな風に書きつつ、そうやって叩く側の気持ちも実は分かる。というか、そういう感じに叩く気質になってしまっているのは個人の責任だけではないと思う部分もかなりあって。

というのも、やっぱりこれもマスゴミの功罪*1は大きいと思うんだけど、「自分が感じた、を根拠にした意見」を表明することに批判的な風潮というのが最近の日本にはあるじゃないですか。批判じゃなくてもそれを珍しいこと・異様なこととしてクローズアップする傾向が特にマスゴミ主導で、ある。日本人はもともと国民性として自分の意見を表明することが苦手だけれど、それを強化する方向にこの国のマスゴミが働いてしまっている。何か陰謀でもあるんじゃないかと思うくらい恐るべき指向性で。(陰謀論者ではないんですがー(´∀`))
マスメディア、特にテレビにおけるそういった「緩やかな言論弾圧」とでもいうような雰囲気についてはまた別に書きたいと思うけれど、世間の間でもそういう見えないプレッシャーというか、「完全な正義以外は悪!」「完全に清廉なもの以外は汚物!」「一点の汚れもない人以外批判禁止(※ただし自分だけは除く)」臭がすごくて、気軽に思ったことを表明できないという空気は(こんな辺境のひっそりブログを書いているだけの)私ですら感じるわけでね…。

そんなわけで、何か感じた時に純粋な自分の意見として表明することは危険なことであると誰もが無意識に恐怖感を擦りこまれてしまっているんですよね。
そうなると、「一般的な正論」で武装するしかない。「そんなのお前の個人的意見だろ」と叩かれないように。無意識にそういう癖がついてしまっているんですよね。
本来意見なんて個人的なものであるのが当たり前なのにw(´∀`) 
この国ではそれが言えないようになってしまった。
合理的な理論(と思われるもの)、一般的な正論(と思われるもの)、世間的常識(と思われるもの)をバックにつけないと、何も言えないわけです。恐ろしいことだと思いますよ。
三島が恐れた「理性の暴走」とはこういうことだと思う。

最後になるけれど、「偽善だ」もそう。
偽善と感じる心はいい。でもその先で「本当に『偽善』なのか?そもそも『偽善』とは自分にとって何なのか」と考えることができなければ、これも単なる思考停止。
「自分にとって本当の偽善とはどういうことを言うのか」というところを自分の中できちんと把握・理解している人はあまりいないというのが私の印象です。
何を偽善とするかは個人の自由。
ただ、実際に被災地に支援をして現地にとって役立っていることであってもそれを「偽善だ」と批判するなら、自分がそう思わない方法で支援すればいいことだと思う。それをやって初めてその「偽善だ」はその人の「信念」という立派なものになる。実際に自分が行動しない限り、信念とは言えない。

ちなみに私が偽善という言葉でまず思い浮かべるのは「自分たちは高額なギャラをもらって仕事として感動を演出し、募金は一般人から募る」某番組のようなもの。あんなの演者も完全チャリティーでやらなきゃ嘘でしょ…(´д`)デショ*2


 

manmaru14.hatenablog.jp

 

 

*1:変な文章ですが功の部分もないとは言えないわけで…

*2:あの番組に意義が全くないとは言わないけど、彼らが仕事してあれを行っていることをぼかしていかにも善意でやってます!みたいな顔と雰囲気の作りにしているところがあざといと思う。

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