願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

思い出は必要か

いよいよパソコンがダメっぽくなってきて、とりあえず外付けHDDを購入してバックアップを取っておいた方がいいかも…と思い、色々調べてみる。

そもそもバックアップは今はもう全然とっていない\(^o^)/
外付けがないから、バックアップと言っても同じ内臓ドライブに保存することになるし、容量だけ食ってそこが逝ったら意味ないし、そもそも絶対保存しておかなきゃいけないようなデータも大してない。
少し前にUSBフラッシュメモリに一度バックアップをとったはずなので、それまでの写真や動画(ほんの少し)などはそっちに保存できていると思う。あくまで、「思う」w(´ρ`)


ざっと見て、バッファロー製の1TB、8000円前後のものでいいかと思い、ポチしようとして手を止めた。

 


本当にこれ、買わなきゃだめ?(´・ω・`)
絶対に必要?(´・ω・`)

断捨離を始めて物を購入する時にはこう自問するようになった定型質問。

ぶっちゃけ、我が家にはパソコンは絶対必要なものじゃない。
いや!必要ではあるけど!なくなったら困るけど!ただ、なくなったら絶対に無理、暮らせないということはないわけでね…。
ネットスーパーやネット通販が使いにくくなること、ブログ更新がしにくくなること、そしてデジカメで撮った息子の生まれてからの写真や動画(ほんの少し)のバックアップがなくなること、がデメリットだ。
しかしその中でも一番はやはり最後の、「息子の思い出が消えてしまうかもしれない」という不安だったりする。

過去の場景は絶対に戻らないだけあって、残されたその記録はプライスレスだ。

…というか、「プライスレス」に感じやすい。

私は過去に生きている残念な人間で、記憶こそ財産、思い出こそ資産という若い時から老人のような価値観の持ち主でこれまで来ているのですが、近年断捨離に目覚めミニマリスト・シンプリストに傾倒し「今を生きる」という価値観に触れてから、自分のそれまでの価値観を見直すようになった。
そこに到る経緯として、3.11の東日本大震災を当事者として体験したことも大きい。

結局は今生きている人が、命が、何よりも大事で、すべてのものの価値はその命あってこそで、命がなければそれ以外のものの価値は無に等しいということ。

そのことを生々しく身近な感覚として思い知らされた。
あのような大きな災害に遭遇すれば誰もがきっと大なり小なり同じような心境になるんじゃないかと思うが、「記憶遺産」を何よりも大事にしていた私は殊更自分の生き方について考えさせられた。

ひとたび津波(や災害)が襲って家が流されれば、それまで積み重ねてきた「物」は全て一瞬でなくなってしまうという、(当然の)事実。
写真も、メディアも、文集や卒業アルバムといった思い出の品も、家族で過ごした空間も消え去り、家族の持ち物も消えてしまう。

だから、断捨離でよく言われる「もしも盗まれたり、災害で失ったと想像して諦められる物は全て手放して差支えない物」という考え方がすごく身近に分かるというか、ひしひしと身につまされた。
生きている人間の生活を圧迫するような「物」は本末転倒だと。

ただ、家族を失った時、思い出すよすがとなるものが何も残されていないのも辛いことだ。
いつかは記憶の檻から出て新しい生活に踏み出していくとしても、哀しみに浸る時間は大事な時間で、形見の品は大事な財産だ。
その人がこの世に、思い出し悲しんでいる「自分」と一緒に、生きていたという証だから。

そう思うと、いま私は思い出のどこまでを保存すべきか、重要視すべきか分からなくなる。

生きている息子が全てだから、息子が生きてさえいてくれれば過去の思い出は全部要らない、というのも真実。

でも、二度と戻らない息子の成長の記憶、息子が生まれた証も、私の人生における大切な財産なのだ。

記憶を失くす病気を見聞きして、言いようのない切ない悲しい気持ちになるのは、本能じゃないだろうか。
動物の中で人間だけが思い出として記憶を保持できるという。
その意義はなんなのだろう。
分からない。

タイトルに対する答えは簡単だ。
思い出は「必要」。

だけど、「どこまで」?

ここが問題なんだと思う。
どこからどこまでが余計じゃない、そして後悔しない、必要十分な線なのだろう。

考えてみたが、簡単に答えは出ない。


とりあえず外付けをどうしよう…(´ρ`;)


 

 

 

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