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願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

病気や障碍は「個性」か

記事タイトルは自分の中でも特に難しいと感じているテーマ。

最初に私のスタンスを表明すると、病気や障碍もそれを持つ本人が「これは個性だ」と言うなら個性とし、本人がそう主張しないなら個性とは見做さない、というスタンス。
非常に曖昧に見えるかもしれないけど(´・ω・`)

  •  病気や障碍は「個性」か


もともと、どちらかというと私は「病気や障碍も個性の一つ」という主張には違和感を感じてきた方。
それは私自身に生まれつき病気があり、生命には関わらない(←病気の原因が変異でもしない限り)し日常生活にもほとんど支障がない、社会的には健康な健常者として問題なく暮らしてきたレベルでありながら、その病気のおかげで人生において随分とハンデを負った*1とネガティブに感じているから、というのが大きいと思うが、主張としてその違和感を言葉にすると「病気や障碍というのは現人類の生理学的機能においては間違いなくハンデであるから」

病気や障碍は、よく「個性」問題で同列に語られやすい「容姿やスタイル」といった「真の個性」」とは全く種類が違う性質だと思う。
容姿やスタイルでも人は差別されるし、生き難い、生き易いがあるではないか、と同列派の人々は言うが、容姿やスタイルの良し悪しは時代や国によって変わる。社会の在り様によって変化するから、ある容姿やスタイルが有利にも不利にもなり得る。現代では痩せている女性の方がもてはやされるが、大昔は肥満が美の象徴だったように。
しかし、病気や障碍が生きるのに有利になる社会というのは生物である限り存在し得ない時の支配者がそのフェチだったり、といった極めて限定された条件下以外)生物の社会として有り得ない。

これが大前提。

病気や障碍があるだけで、一般人よりも「その生物として」生き難いスタートラインに立っている。これは絶対的な事実だ。
この前提を置き忘れている気がして、違和感を感じるのです。

私自身のことを言えば、健康な人から自分の病気を個性だと言われたらぶん殴りたくなるだろう。
実際当人の苦労も知らないでポジティブイメージ押し付けんじゃねーよ、糞が!(゜д゜)
って。
この病気は私の「個性」なんかじゃない。そう思いたくないだけかもしれないけど。一生付き合う気なんかない。できれば。

本人が自分の個性だと思うことはいいし、尊重したいし、尊重されるべきだと思う。
よく「かわいそうだと思われたくない」ということを見聞きするけれど、過度の憐みは失礼だとしても、「ハンディがあることで健康な自分よりも不自由は多いだろう」と思うこと、「手助けしたい」と思うことは「憐み」とは違う。それは「思いやり」だ。

「思いやり」は、病気や障碍がある相手だけに向けられるものじゃないよね。
相手が健康な人でも、その時の状況や状態を慮り、相手の身になって考えることだ。
だから、それを過度に否定する主張には違和感が拭えない(「主張」じゃなくて「感情」なら理解できるし、共感できる)。
例えば、中学生に席を譲られて「ワシはまだそんな歳じゃない!」と叱りつける老人へのモヤモヤと同類の違和感を感じる。私は。

関係ないけど、容姿の話でも「あの子はブスでかわいそうに」というとバカにしているように聞こえるけど、「容姿がこの現代では不器量とされるために生き難いことも多いだろう」と推察することはバカにしているわけじゃない。実際相手にそれを言ったら別だけど。
これは「受け手がそう受け取ったらハラスメント」というハラスメントとは真逆な感覚な気がする。うまく言えないが・・・

  • 病気や障碍を「武器」として利用することは是か否か


「武器」というか「商品価値」とした方が現実的かもしれない。
私は(本人が嫌々やらされているのでなければ)賛成。それを売りにして客を呼ぶ、お金を稼ぐ、というようなことはアリだと私は思う。
(一緒にすべきじゃないと怒られるかもしれないが)古くの「見世物小屋」はそうだった。身体に奇形のある人が生きていく手段として、「仕事」として、自身の「ハンディのある肉体そのもの」を「商品価値」にしてお金を稼いだ。
近代になって人権活動家が出てきて、「見世物は身体障碍者への人権侵害だ!」と廃止に追い込んだ、本人たちの意見は無視して、という知識が私の中にあるが本当のところはどうだったのか知らない。

意志と裏腹に嫌々見世物にされていた人も当然いるだろうから、全部は肯定しない。
しかし、内心は喜んでやっているわけではないとしても自分たちにしかできない方法で自分たちのハンディを生かして合法的に金を稼ぐという「職業」として、自立して生きていた人達がいることも確かだったと思う。

「与えられたものを最大限生かして利用する」という生き方は、容姿であれ才能であれ変わらない。

"四肢欠損の女性たちがそのフェチの人たちを接客する店" がネットで少し話題になっているのを、読者登録している大手ブログさんの記事で知った。
そのブロガーさんは支持したいと書いていて、私もそれには同感だったのだけど、私の知る限りの日本人の気質としてこういう感覚が世間的に認知され出して増えてくると(増えること自体は良いんだけど)個人がよく考えもせず一気に大衆の主流となり、少数意見を排除しようとし出すので、そのことへの懸念が頭に浮かんだ(そのブロガーさんはこれまでの記事でグローバルな視点を持っていることを知っているので強い支持表明しても信用できるが)。
対象が病気や障碍といった「生命に関係する事柄」なので特に怖いと感じる。

私は容易に想像した。

「病気や障碍はネガティブなものじゃない、ポジティブな個性なんだ!」という感覚が社会に広がり、世間の多くが思い込むとどうなるか。

病気や障碍について「辛い、苦しい、不自由だ」と弱音を吐くことが認められなくなる(゜д゜)


残念ながらそれが今の日本の風潮ではないか、と感じたのだ。

「病気?障碍?いいじゃない!それもあなたの立派な個性だもの!(´∀`∗)生まれつき足がないとか、それもステキじゃない!!」
・・・なんていう「ぶしつけすぎる励まし」が今より更に横行することになるんじゃないか。
私がそんなこと言われたらとりあえず腹にワンパン入れてやりたくなりますけどね・・・(´ー`)
言っておくと、上記の台詞はお互いに理解し合えている、本当に親しい間柄の人間が言うなら別だと思いますよ?もちろん。でもほとんど見ず知らずみたいな人に言われたら、現実的には「なんなの、失礼な人・・・つかちょっとおかしい人っぽいからあまり刺激しないようそっとしておこう・・・」とかってなる案件じゃないですかね?(゜д゜)

病気や障碍を持つ本人たち(の中でもポジティブな一部な人々)は「これが自分。これは個性」と思い、そう言うこともあるだろう(もちろんこれは良いことだと思う)。
でも、健康な周囲の人間はそれを「鵜呑み」にしてはいけない。「鵜呑み」というのは「他の病気や障碍のある人間も全員皆そう思っている、と思い込む」ことだ。

病気や障碍という「本来はなかったはずのハンディ」を持つ立場の人が、「これは個性だ」と思うことで日々を楽しく、明るく、ポジティブに過ごせるならそれは素晴らしいことだ。

だが、ポジティブを過剰に持ち上げすぎることは、ネガティブへの攻撃に繋がりかねない(残念な日本人の気質として)。
ポジティブもネガティブもそれはそれとして受容する、それが真に「差別のない社会」の感覚なんではないかなーと思う。
ちなみに差別のない社会、平等な社会というのは「弱者にも強者と等しい負担を強いる厳しい社会」ではない。「差異」を認め、性別・個人・人種・全ての属性を受容し、尊重する社会のことだ。
「差異」を認めることは「差別」ではない。

今回の内容には直接関係しないかもしれないけれど、そもそも島国日本人にとって「差異」を認めること、違いを尊重することは本当に容易なことじゃないなーと日々感じる。
我々は「みんなと同じ」が大好きな国民なのだ。そういう国民性なのだ。遺伝子的にはどうなのか分からないが、何千年も無意識にそういう洗脳が受け継がれている。
これを変えて行かない限り、今ある問題のどれも根本的に何もかも難しいだろうなと思う。

 


最後に、今回書いた私の考えは、あくまで「今存在している、これまで存在してきた人間社会」が前提の話です。
様々な病気や障碍は、今は「病気」や「障碍」であっても現代の科学ではまだ解明されていないだけで、ひょっとするとこの先の人類にとっては「ポジティブな意義のあるもの」であったり、人類の進化の過程である可能性もあり得ると思う。
(昔習った)鎌形赤血球マラリアに強いとか、それ系の感じで・・・(´ρ`)

 

 


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*1:精神面が一番大きいけれど身体的なハンデとしてこの病気のせいで間接的に歯が悪く、自分の生身の歯は2本くらいしかない。他は全部被さっているかブリッジか差し歯か入れ歯(部分)。現実として総入れ歯になるのは遠くないと思う。

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