読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

ワイ「宗教、嫌い(´・ω・`)」

特定のある世界的な宗教の過激派のせい、という理由がきっかけとして大きいんですが、最近「宗教が嫌いだ」という感情をはっきり意識しました(゜д゜)

・・・という話なんですが、最初は荒ぶる感情のまま書いていたんですが、テーマがテーマなので少し日をおきつつ書き直しつつまとめてみると、どーしようもなくまとまりのない、単なる雑文もいいとこの書き散らかしになってしまったというね・・・(´ー`)wまあ結果的にいつものことと言えばいつものことなんですが。
これ以上加筆修正しても無駄と思ったのでこのまま上げることにしました。
ええ・・・わざわざこんなこと書かなくてもいいんですが、もー個人的にこの記事には何日もかかっていて、他の下書きも溜まってるのに!という・・・完全に自分自身に対するやり場のない鬱憤なんですがw なんか一言つけずにいられなかったという私情丸出しなだけというね(完全に自分勝手)。
保険じゃないですが、日数空いた更新、そして久々に硬派な内容(?)の割に文章のクォリティはいつも通り低空飛行となっているので、期待しないでくださいorz

※個別の宗教や信仰心をいたずらにディスるつもりはありません。ただ宗教全体・宗教それ自体に対する懐疑の内容なので合わない方は生温くスルーでおながいします(´ρ`)

f:id:manmaru14:20151011103942j:plain

 

そんなわけで、「宗教が嫌い」だとはっきり思いました。
その「嫌い」という気持ちを正確に言い表すと「嫌悪」です。「苦手」じゃなく、もっと積極的な嫌悪と、憎悪の感情が強いです。
あ、でもそれはあくまで「宗教というもの自体」への感情であって、「それを信仰する人々」への感情じゃないので、ご注意(´∀`)

なぜその感情に行き着いたかというと、宗教って思考停止の最上位形態じゃないですか(゜д゜)
思考停止がすごく嫌いなんですよね・・・。上にはっきり気付いてから「だから宗教にこんなにモヤモヤしていたんだ」と。
私宗教が嫌いなんだ、と。

生きることにおいて何も考える必要がなく済むもの。それが宗教だと、はっきり思ってしまったんですよね。

だって、すべて「神がそう望むから」でオーケイにできちゃうじゃないですか(゜д゜)
宗教によっては、人を殺すかどうかすら自分の頭で考えなくていい。
「異端の排除は神がそれを望むから」でオゲ!っつーね(´ρ`)

どう生きるのか、何を食べるのか、何時に行動をするのか、食べないのか、殺すのか、ヒゲを生やすのか、・・・そういった、あらゆる多岐に渡る自由意思・取捨選択の判断・決断を自分の頭で、心で悩んで考えて下すのじゃなく、宗教だから、何も考えないでそれに従ってしまう。

そういう人間の意思の形態がものすごく怖い、と感じるようになりました。
本当に怖いんだけど(゜д゜)
そんなの「人」じゃないじゃん。(『漫勉』の藤田和日郎の回で浦沢直樹が連呼してた(´∀`)w)「人ならざるもの」じゃん。

そして、心底、


くだらない(゜д゜)


とも感じたんですよ・・・。吐き気がするほど(゜д゜)
なんなんだ、って。何様なんだ、って。

そもそも宗教って幸せになるためにあるもの(あっても良いもの)だと思っているので、罪もない人々が宗教のせいで殺されたり不幸になるのが昔から腹が立って仕方がなかった(゜д゜)
青臭いと思われようと、許せないと思っていました。

さて、冒頭できっかけになったと書いた、あの、今や世界的な癌となりつつある、某メジャー宗教。
その宗教の平和的信者の人々が「この宗教自体は悪くない、事件を起こしているのはこの宗教を歪めて利用している一部の人々だ」と主張しているのは私も知っているし、そしてそれはきっと真実なんだろうと思っているし、そもそも「個人」をただその宗教だからという理由だけで憎悪の対象にして攻撃すること自体絶対に良くないことだと思っている。


ただ、あの宗教自体やはり特殊だという気持ちは拭えないわけで。

まず、戒律が厳しい上、基本的に改宗が不可能というところがね、これが致命的だと思うんだよね。
以前も別の記事で書いたことだけれど、こういう宗教って生まれた国や家庭で自動的に信仰することが決められてしまっていることが多く自分の意志では選択できないものにも関わらず、それを止めるかどうか自分の頭で考えること自体が否定されてしまっている。(←「戒律は絶対」「神の教えは絶対」だから)
自分と自分の今在る状態を疑うという思考・哲学の初歩がまず不可能。

それから、二番目に、他の宗教・神を否定しているところ。
地球という多くの民族、多くの信仰が存在する世界において、ここも致命的。
否定するだけじゃなく、その殲滅や解決のために武力を使うことを教義が肯定してしまっている。
そして、付け加えると、キリスト教における教皇・法王のような「現世において信仰する神の代理・教義の絶対的規範と見做してよいレベルの唯一指導者的存在」がない。あるのかもしれないけど、少なくとも私の中では法王ほどの権威と権力があるイメージとしての存在はない。
そのため、上で書いた教義の解釈という点で非人道的な利用や誇大解釈の肯定に強力なストッパーが存在しない。
その宗教の名を掲げた武装テロ組織のあまりの行いに、これまでは他の過激な武装組織を黙認してきた指導者的なグループ(その宗教の最大派閥で影響力が最も大きいとされている)の代表が「彼らはこの教徒ではない」という批判声名を公式に出したことがあったけれど(こういうこと自体はもちろん有難いことだけれど)、結果的に何にもなっていないというか、だから?みたいな感じで奴らは何も衰えていないよね・・・という(´д`)

ところで、攻撃的で排他的という理由で特定の宗教を批判すると必ずキリスト教だって相当酷かった!」と言う論調があるけど、私はキリスト教を擁護する気はないし過去の歴史を見るともうまったくその批判の通りだと思っているんだけど、ただ、現代のような民主主義がある程度広まってきた世界においては、キリスト教も時代に沿って教義解釈を変更したり、出来うる限り他宗教の存在との平和的な折り合いをつけようとしているのではないかとは感じる。
過去の解釈や行動の一部を間違いだったと認めたりもしているし。
もちろんキリスト教の中の宗派によっては頑固に昔のまま貫く派もあるし、宗派関係なく一部の極端な狂信者というか、教義を自分の都合の良いように歪曲し反社会的な行為の免罪符として利用する輩はどんな宗教にもいつだって一定数はいる。それは冒頭に挙げた宗教もキリスト教も、他の宗教だって同じことだけれど。


と、ここまで散々某宗教をディスってきて今更何なんですが、今回書きたいことはそれではなく、特定の宗教ではなくあくまでタイトル通り「全ての宗教・宗教というもの自体」に対する私の嫌悪感です。

そもそも、社会における宗教の存在価値として、自由意思を持ちたくない・持たせたくないという両方の側の人間にとって、非常に便利な道具だと思うんですよ。宗教という概念って(´∀`)

宗教が最初に自然発生した理由・経緯って「大自然への畏怖や敬意」というのが一番に思いつくような気がするんだけど、それは表面的なきっかけであって、その大本にあるのは「自分の力じゃどうにもならない」という絶望と諦めへの "合理的な言い訳" じゃないかなと私は思うんですね。
生きるために、その絶望から心を保つための、いわば心理的防衛機制の一種。
かなり乱暴に言うと「酸っぱいブドウ」の変化バージョンで、「甘いリンゴ」とでもしてみる。
「あのリンゴはきっと甘くて美味しいんじゃないかと思うんだけど、でも『食べたらだめ!毒!』って神様が言ってた。だから食べちゃいけない」みたいな。(←まあキリスト教によると人間は食べてしまって現在=原罪に到るんですが・・・ってうまいこと言ったみたいな顔(ニヤリ)

昔は人間てもろに弱くて、ちょっとした災害や飢饉で簡単に死ぬし、「支配者」が現れてからはもう何千年て単位で平民には自由なんてなかったも同然じゃないですか。(こういうことを考えると本当に現代に生まれて良かったと確かに思う・・・多少の貧乏がなんだ!ヽ(`Д´)ノ)
そうすると、持つだけ無駄で苦悩の原因にしかならない「自由意思」なんて被支配者層にとってはかえって邪魔なもので、それを心理的に合理的に納得させるために便利なものが宗教だったと私は思うんですよね。

よく「信仰だけが心の拠り所」という言い方をしたりしますが、それは確かに真実であって、乱暴な言い方をすればすべてを神のせいにしてしまえばいいわけですよ。
どうしようもない苦労や困難は「これも神の御裁量、きちんとお考えがあるのだ」と思えば、諦められるわけです。無駄に不毛にもがいて更に苦しんだりすることなく。宗教ってほんと生活の知恵(´∀`)☆っつー。

また、他方の「自由意思を持たせたくない側」である支配者層の宗教の利用については、私なんかがあえて書くまでもないことですよね。まあそれに加えてそっちは今回のテーマからは微妙にずれるので割愛。

要するにその、すべてを神の意思ということにして丸投げし、自分の頭で考えないというスタンスが私の嫌うところなのです。
といっても、実にそれこそが宗教の本質であり、そしてそれが「必要」だったからこそ宗教が生まれたわけで、人類のある時期・場所(現在も含む)という限定的な条件においては間違いなく「救い」だった。と同時に、しかしやはりそれこそが宗教というものの抱える「根源的な問題」である、と私は考えるのです。

上の繰り返しになりますが、宗教によって救われてきた命や心もこれまでたくさんあると思うんですよ。
上でも書いたけれど、それを信仰し人々が幸せになるのであればそれは有益であり、宗教は「善」であれ「悪」ではないわけで。

ただ、そういう宗教の有益性とそれを担保していたこれまでの世界のあり方が今や大きく変化しているということが宗教を問題化している。

要するに、宗教がいま人類にとって問題なのは(超個人的には宗教はもう害「悪」だとすら思える)、これまでの宗教のあり方のままずっとやっていけるほど世界はもう狭くなくなってしまった、ということ。
そして一度広がってしまった世界が再び(個々に分断され孤立した)狭い世界になる、ということはもう多分二度とない。
多民族、多文化、多価値観、そして信じる宗教や神もそれぞれ・・・という広い世界が、今はもう簡単に身近な存在になってしまったわけで。

小さな村が自分の全世界、一生をそこで過ごし終える、という時代にはなかった「思考や価値観の柔軟な転換や理解」が求められるというか必須の時代になってきたわけです。そうしなければ人類が存続していけない、というかなり大きな事態になっている。
しかし、ほとんどの宗教はその「本質」上、柔軟さに欠け、変化や受容を頑なに拒む形になることが多い。
そして現在、現実にそれができない某宗教の一部が本当に世界を破滅させようとしている現状なわけです。


しかしですね、ここでちょっと横道にそれて私の個人的な感情の話をすると、宗教を信仰したい・・・と切に願ってしまいもするわけでw

だって、楽だからwwww(´∀`)

自分の頭で考えず、全てを「神」に委ねればいいわけだから。

災難や苦労は「たまたま」でもなければ「自分の自業自得」でもない。みんな神のおぼし召し。ただただ黙って粛々と受け止めて流せばいい。
何があってもこの世で起きることは全て神の裁量、天網カイカイだから、それを疑問に思うこともしなくていいし、起きた出来事の意味を考えたり悩んだりして無駄に心を疲弊させる必要もない。
もちろん病や生き死にも神が決めること。
それについて考えることは意味のないことだ。

そう考えると、私の考えでは "哲学者" が神を否定するのは必然なんですよねー。
えーと、「神は死んだ」と言ったのはニーチェだったっけ・・・?(ニーチェちゃんと読んでないので分からなくてすみません。以前挑戦した時難しくて最後まで読めなかったYO・・・死ぬまでには読めるとイイナー・・・(´д`:))

現実には神学者や信仰心の厚い哲学者もいますが。

最後に、蛇足だとは思いつつ念の為。
反社会的じゃないあらゆる宗教を信仰する人々や信仰心を否定する気はなく、批判するつもりは更にありません。
私なりの現在の「宗教というもの・観念」について私はこう思う、という主張でした。

私は特別な信仰対象がなく無宗教という点では無神論者ですが、「何か大いなるもの」・或いは全てものに畏敬の念を抱き、生かされていると感じて感謝して生きる感覚には賛同するし、困った時には普通に神頼みする矛盾者だし、神社や寺や教会では心を静かにして手を合わせるし、慕っていた人や動物が亡くなれば雲の上で幸せに過ごしていて欲しいと願うし、これが何なのかはよく分かりません。
でもこれからもそうありたいと思っています・・・(´ρ`)


・・・と、今回も風呂敷を畳めないままとりあえず何となく終わるのでした。デハマタ(´∀`)



●関連記事

manmaru14.hatenablog.jp

manmaru14.hatenablog.jp

 

 

広告を非表示にする