願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

転勤族の寂しさと、思い出す少しの煩わしさ。

息子の幼稚園、今のとこ地元出身のお母さんが多い。転勤族の私としてはしょうがないことだけど出身を聞いて近くだと何となく寂しさを覚える。
うん、転勤族というシステムは国策でなくすべきだな!(もしくは逆に国民全員一度は転勤族になるとか)(´ρ`)
・・・ええ、何も考えずちょっと言ってみただけです。
 

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ここで言う「地元出身」というのは「東京都出身」という意味だけでなく隣県など含めた狭い範囲での関東地方、いわゆる「東京圏」出身のことなんだけど、寂しいだけでなく(結果的に)助かっている部分もあることはある。

東京圏の人は他人に不用意に入って行かないと感じる。
人付き合いがドライだと大都会について言われたりするが、私はむしろそれが思いやりのような感じがする。
人が多く人口密度も半端じゃないからこそ、見て見ぬふりをする優しさが発達したのだと思う。
地方からすると冗談のようにどの店も狭くてドッキリなんじゃないかと疑うくらいの店内で、隣で起こることにいちいち関心を示してたら身が持たないし、自分の行動をちらちら見られるのも不愉快だ。
大都会の「無関心」は「一種の優しさ」だ。
見ないであげる。気にしないでいてあげる。

ところで、そんなわけで節度と距離感を大事にする地元出身のお母さん方と、私はなかなか仲良くなれないでいる。
互いに距離を計りながら近付くまともな人間同士だと、強い共通項が見つからないとその距離は縮まらないが、たまたまなのかこの幼稚園のカラーなのか(それとも私が一般的じゃないからか←多分これw)、今のところ特に共通の嗜好や感覚を持ったお母さんには出会えていない。
まあ、私はバス通園で行事がある時以外はほとんど幼稚園に行かないのでそもそも会って言葉を交わすことが少ないというのはあるんだけど。

・・・なんかみんな結構アクティブなんだよね・・・(´∀`)
私のように「子供遊びに連れていくのだるいわーめんどくさいわーハナホジ」っていうぐーたらな感じの人がいない印象(´д`;)そんな駄目母私だけ?いやん☆
ほとんどのお母さんが高齢出産の私よりずっと若いから、というのはあると思うが、同じ歳のお母さんもとてもアクティブで、子供二人連れてどこどこへ行った、なになにをした、という話を聞く度にへーと尊敬してしまう(そしてああ私には無理・・・お邪魔はすまい・・・と感じてしまうw)。

若い頃だったら、そんな風に多少「周りの雰囲気と合わない」と感じても勢いでぶっちゃけたりして、結果「あー実は私もー!」ってなることも多いが、幼稚園の保護者という立場上お互いに常識人でいなければならないという自制がかなり厳しく働くため、そういうことはまずない。

更に私は自分から近付くということができないタイプ。

一人がどうしてもいやだと思う心理もないので、積極的に友人を作ろうとすることもしない。

また、地元出身の人は地元なので既に近くに友達がちゃんといる、と思うことも心理的に大きい。
もともといる友達との交流が出来上がっているだろう相手の新たな刺激的な友人になれる自信はないし、邪魔したくないと思ってしまうのだ。最初から一歩引いてしまう。
転勤族って心理的にもぼっちになりやすい要素だなーと思う。

思ったのは、人と人が初対面で出会って、互いに「仲良くなれたらいいなー」程度の気持ちはあったとして、最初の挨拶レベルの会話から始まり、何回か会ってちょこちょこ話す機会があったとして、その数回で相手のことを探りながら距離を縮めていった後、そこから一気に親しくなれないとその関係はしぼんで終わっていくなーと。
一旦近付いた時の最短距離で維持されるわけじゃなく、後退していく、というところが重要。

人って、無駄な関係を維持するためにエネルギーは割かないんだよね。実は。自然に、かなりシビアにできている。

だから、人間関係って深まるか、浅くなって消滅するかのどちらかしかない気がする。
「いや、何十年もふらっとたまに会う程度の関係がうまく続いているよー」というような間柄は、互いに相手と切れたくないと望んで何かしら努力をしているのだと思う(或いはどっちかが一方的に熱烈、もう一方はそれは嫌じゃないから受けているというような。少しでも嫌になったら続かない。→参考:「また一人友達を失くすのか・・・」という話 )。

人は人と分かりあうために時間がかかる。
ある程度分かりあわないと友人にはなれない。

とすると、転勤族であるだけで友人のできる確率はぐっと下がってしまうのだ。

ぶっちゃけ友人がいない状態というのはとても辛い。
正味5年間くらい半径100キロメートル圏内にまったく友人(&親しく話せる顔見知り)がいない状態を何年も経験しているが、死にたくなるよ☆(´∀`∗)
・・・死にたくなるは少し大袈裟だけど、何のために生きているのか分からないという感情が麻痺した感じにはなる。配偶者がいても私はそうだった。

日々の他愛もないことを話して共感し合えて笑い合える、そんな些細な当たり前のことが人間の(特に女の←ここ重要だと思う)生活にはどれだけ重要なことか。

それが身に染みて分かるというね・・・。
幸い私には今も昔も妹という親友が長電話の友としていてくれるので、それで何とか乗り切れた、という感じ。

ちなみに私は小さい頃から一人で遊ぶのが好きで、基本的に一人でいることが好き、むしろ一人になれないと苦痛を感じるという体質です。孤独でいることに何の恐怖もない(少なくとも今の平和な日本という状況下で)。
でも、何年間も会って話せる友達が近くにいない、という生活は精神的にかなりのストレスだったんですねー。

私は地元から一歩も出ずに暮らしているという人を下に見てしまう傾向があるが(突然強烈なカミングアウト)、それは厳しい環境を知らずぬるま湯で生きていることへの生温い微笑だけでなく、自分が叶えられなかった生活への憧れや、そういう辛い経験(子供の頃から転勤族だから根が深い)からの嫉妬も多分に含まれていたりする。

・・・しかし、人と繋がるということは楽しいことばかりじゃないわけで。

しかも私がもともと人と積極的に関わろうとしないのはそもそもそういう危惧を強く抱いているから、なわけでもあるわけで・・・(→参考:私が「激情型ボーダー」で良かったと思う唯一のこと。)。

冒頭で書いた「助かっている部分もある」というのはこういうところ。
積極的に親しく声をかけてくる人というのは、その中におかしい人がいることも多い、というのが私のこれまでの人生経験で得た知識だ。もちろん、人付き合いに消極的な人の中にもおかしい人はいる。むしろこっちの方が多いかもしれない。
でも、もともと人付き合いに消極的な人は消極的なことが幸いして、その被害を周りが被りにくい。
そういう意味で人付き合いに積極的なおかしい人による被害の方が遭い易く、また人付き合いに積極的であるゆえに、一旦トラブルが起きると色んな人に色んな話を吹聴され、被害が拡大しやすいのだ。

何事にもリスクが伴う。
人付き合いで言えば、仲良くなった人が善人であるとは限らない。
深く交わらなければ、寂しいが、被害には遭わないで済む。

寂しさは特別な感情ではない、と、日参しているミニマリストブロガーさんも書いておられたが、その通りだと思った。
人間は誰でも寂しくて当たり前。本来寂しい生き物なのだ。本来、寂しさというのは人生に標準装備されているものなのだ。特別なオプションでもなければ、異常な事態でもない。

友人がいても寂しさを感じることもある。
こんなにたくさん仲良しがいるのに、誰にも気持ちを分かってもらえていない・・・と感じるような時だ。
もちろん私にも経験がある。
それを思えば、友人がいない寂しさを感じている方がよほどマシであるような気もする・・・。




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