願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

東日本大震災の記憶(2)

東日本大震災の記憶(1)からの続きです。

 
ちなみに3/11日付の号外もある。
ただこれは12日に郵便受けを見た時に12日の新聞と一緒に入っていたものだったか、他の経路でもらってきたものか、全く覚えていない。
自分が「初めて画として目にし衝撃を受けた」と強く記憶に焼き付いているのは12日の見開きの写真なので、どこかに記憶の穴があるんだろう。

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電気が復旧したのは3~4日後くらいだったように思う。
携帯も5回に1回くらいは繋がるようになった。ネットにも繋がり、私はmixiで無事を伝えた。
twitterでカナダに住む末の妹ともやっと連絡が取れた。
電気が復旧したので固定電話が繋がり、直接話もできた。妹は生きた心地がしなかったらしい。ずっと泣いていたと言った。そりゃそうだと思う・・・。

実家では電気と入れ替わるようにして水道が止まった。
前夜から出が悪くなっていたのを危惧した妹が「水を溜めておこう」と提案し、そうして良かった。
トイレは「小」は流さず、誰かが「大」をした時だけまとめて流すようにした。
新港の方にある下水処理施設が壊滅状態で、できるだけ水洗トイレの自粛を呼びかけていた。なるべく紙の量を減らしたり、別に捨てるなどした。

この辺りから買い出しや物資の調達が日々のメイン課題になる。
飲料については溜めた水やもともとあったペットボトルの買い置き、電気が復旧したので近所の自販機から購入したもの、近所で水の出る蛇口を開放してくれているお宅もあったりしてあまり不安はなかったが、この非日常の日々がいつまでつづくか予想できなかったので食べ物の方が心配だった。
父や夫は食べ物が手に入る場所を探して遠くまで出かけて行った。
母と妹と私も近くの弁当屋や飲食店に尋ねたり、そこが弁当を外で売り始めたりして買いに行ったりした。
「シャンプー500円」と看板を出している美容室に髪を洗いに行ったりもした(私はカットもしてもらった)。水が出ないので自宅では髪を洗うことができなかった。普段は気休めと思いつつアルコール除菌シートで頭皮や髪の毛を拭いていた。

ホームセンターやドラッグストアに並び、制限のある中久しぶりに買い物をしたりした。ケースの蕎麦(乾燥)を買ったりした。
よく晴れた日だった。
3/15も長い時間ではなかったが外にいた。

震災後、特にこの実家にいたあたりの期間は毎日記録をつけておけば良かったし、当時もそう思ってはいた。
でも結局しなかったのは、なぜだろう。はっきりとした理由はないが、たぶん単にあまりに毎日がどうなるか分からなくて記録なんかする精神的な余裕がなかったんだろう。
それと、辛かった。自分たちの生活がじゃなく。
毎日テレビで亡くなった人の情報や日々大きくなる津波の被害の報道を目にすることが、本当に辛かった。
テレビで遺体の身体特徴情報を見ながら泣き、新聞を読んでは泣き、割とずっと泣いていた。
乳児や子供の情報は特に辛かった。
でも、当人や遺族でもない自分なんかが悲しんだり泣いたりすることがとても申し訳ない気がして、自己嫌悪で更に辛くなった。
一日の終わりにそれをまた思い出して記録をつけることをしたくなかったのだと思う。

個人的に一番印象的だったのは、本屋から本がなくなった光景だ。
本がない。特に雑誌。雑誌がない。棚に一冊も。
回復し始めた物流は食飲料や日用品など「より生活に必要な物資」で占められていたから、当然だ。
「本屋の平棚が何もない、スカスカのガラガラ」という、見たことのない光景はそれからもしばらく続いた。少なくとも1ヶ月以上はそうだったはずだ。完全に通常の光景に戻るには3~4ヶ月かかったんじゃないだろうか・・・。まあこれは地域や書店の規模などにもよるだろうけれど。

震災から1週間から10日も経つと、ほとんど入って来ない「外(被災地以外の地域)」の情報が欲しくなってきた。
テレビも新聞もあったが、当たり前だが被災地に必要な話題に特化していて(もちろん私もその情報が一番ではあった)、「被災地以外の日本は今どうなっているのか」ということは捉えにくかった。

人は情報を欲する生き物ということ以外にも、自分たちが置かれているこの「被災」という状況をその外にいる人間たちの目にはどう見えているのか、どうとらえているのか、専門家の話も知りたかった。
とかく、渦中にいるとその渦の全体は見えないのだ。だから「とにかく何らかを「把握」したかった」と言い換えてもいい。

だからとても雑誌が欲しかった。
ある日父の車を借りて夫と二人で隣県の山形へ買い出しに行き、そこの大型ショッピングセンターの本屋に行ったのだが、売り切れていたのか求めていた雑誌はなく、その近所を書店を探して回った。見つけた小さな本屋で『週刊現代』『週刊新潮』『週刊文春』『AERA』などをまとめ買いして帰った。
それらの雑誌で世間の今や外から見た今回の地震の受け止められ方などに触れることがやっとできた。
原発事故についても。

震災後2週間近くにもなると物資もよく回り始め、店もほとんどが再開したり、県外の親戚や知人からの援助物資も届き始めた。もう少し早い時期には夫の会社からも支援物資がたくさん配られた。夫の会社はその頃はかなりブラックな体質だったが(今は濃いグレー)、この時ばかりは中小企業とは言え全国に支店のある規模の一応「ちゃんとした」会社で良かったと初めて感謝した。
義実家からも水や食料品、夫の旧友からも水が届いたり、私の友人からも色々届いた。
本当に感謝しかない。

最後にして最難関だった問題はやはりガソリンだと思う。

被災した時、たまたま実家の父の車が満タン状態だったことは今回の「震災避難生活」の中で一番幸いだったことだと思う。父は半分ほど減るとすぐに給油するタイプで、それが見事に功を奏した。まさにグッジョブ。
かたや高速で帰ってきていた夫の社用車のタンクはほぼ0。
ネットで情報を調べたり、近くのスタンドに聞いて回ったりし、「この日に」と聞いた日に夫が4時間並んで整理券をもらい、給油することができた。

自宅マンションに戻ったのは3月下旬。
結局実家には夫ともども3週間弱世話になった。

私はお腹の張りがひどくあまり動かないよう言われていたため、震災の翌日に父に乗せられて一度戻って以降は自宅マンションには一切戻っていなかったが、夫は何度かバスを乗り継いで往復して、使えそうな物を持って来たり散らかった室内を片付けたりしてくれていた。
バスはしばらくの間は本数がかなり限られていたこともあり、実家とマンションとの往復は1日~2日がかりだった。夫はそのままマンションに泊まってくることもあった。作業に時間がかかったことももちろんあるだろうが、一人にもなりたかったのだろう。

その頃には水道も完全復旧していたが、住んでいたマンションは給水設備が壊れて修理に時間がかかり、まだ各戸の水道は使えなかった。
何階おきかにエレベーターホール近くの開放廊下に臨時の水道が設置され、そこにバケツやタンクを持って汲みに行くという作業が日課になった。
夫の会社もしばらくは待機状態だったがその頃にはまた再開していて、お腹の張りと相談しつつ私も気合いで水を汲んだ。
洗濯が大変だったが、もうすぐ生まれる息子の肌着を手で洗い手で絞って干したのは今となっては懐かしい思い出だ。

歪んだ玄関ドアの修理のときにはそこがしばらく開けっ放しになったままで寒い思いをした。
大規模半壊の判定だったマンションのベランダや外壁の補修は数か月に及び、常時ベランダに人がいるのでカーテンも閉め切って育児をした期間はさすがに鬱々となった。
震災後一年ほどは、ちょくちょく修理やマンション関係や不動産管理の人間が頻繁に家の中に出入りしていた。

ストレスではあったが、でもこれらのおかげで他人が家に入ってくる状況には私はだいぶ慣れた。


―――大体こんな感じだったと思う。
曖昧な部分が多いし、記憶だから都合の良いように改竄もされているだろう。
私個人について思い返せば、息子がお腹にいたので私はだいぶナーバスで感情的だった。
原発の報道がされるようになってからは外に出ないようにしていたし、外に洗濯物を干そうとしたり外から帰宅した時に衣服を払ったり手を洗ったりしてくれない父親に怒りをぶつけたりもした。
本気で避難移住を考え泣いたり、現実的な母と意見が合わず口論になったりもした。
みんなストレスを溜めていた。もともともう別の家庭となった三組が一つ屋根の下で生活していると、不便や先の不安も重なってちょっとしたことで感情的なぶつかりが起きるようになってもいた。
その中でも妊婦の私は一番だったと思う。
皆が気遣ってくれていることはよく分かっていたが、どうしようもなかった。

私ですらこうだったのだ。
家に戻れず避難所で見ず知らずの大勢の他人と集団で過ごさなければならなかった人たちのストレスと心労、疲労はどれほどのものか、想像もつかない。
福島で「被曝してしまった」「被曝してしまう」と嘆き悩んでいた妊婦、親たちのその苦しみはいかばかりのものだったのか、想像もつかない。胸が痛む。

何より、大切な人を、親を、子供を、妻を、夫を、祖父母を、身内を、ペットを、友人や恩師を、知り合いを、亡くした人の苦しみは私には口にする資格もない。
手が届かず目の前で流されていった子供、夫だけが二階に逃げ切れず階段で手を離した老夫婦、抱っこ紐をつけたまま見つかった妻の変わり果てた姿、泥の中で傷だらけで発見された乳児の遺体・・・
新聞には毎日このような記事が並んでいた。
 

遺体―震災、津波の果てに

遺体―震災、津波の果てに

 

↑数行読んだところで読めなくなり3年経ち、まだ読めないまま。



私が毎年震災の時期にそれについて何かしら書こうとする時、3/11というその当日をどうしても避けてしまう。
自分なんかが、震災当日に合わせてそれについて記事を書くなんてさしでがましいという思いがどうしても消えないのです。
私は確かに東日本大震災という未曽有の大災害に遭遇した。その意味では確かに「被災」した。けれど、家族の誰も亡くなっていないし怪我もしていない。住む家や家財も、思い出も失くしていない。実家に避難できたから特別不便もしていない。
そんな私が被災者面をして3/11に合わせて震災について発信をする資格はないと思ってしまう。
亡くなった方、本当に辛い思いをした方、現在もしている方に対してなぜか申し訳ないという思いが消えないのだ。
もちろん、他のどのような立場の人が3.11に震災について語っても全くそうは感じない。敬意と称賛の気持ちしかない。おこがましいが、感謝で一杯の気持ちになる。
ただ、私は私自身がそうすることについては、なぜかどうしても納得がいかないのだ。理不尽で変な感情であることは分かっているが、どうしてもできない・・・


亡くなった方すべてのご冥福と、残された方々の幸福をお祈りします。
4年経っても、復興なんて全然進んでいないということ。
置き去りにされている人たちがまだ相当いるということ。復興財源はほとんど使われていないということ。
これらの真実が、これからも少しでも多くの人に知ってもらえるようになりますように。





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