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願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

東日本大震災の記憶(1)

四年前のことを改めて書いてみる。
「記録」にしたかったが、如何せん曖昧で「記憶」に留めた。客観的な「記録」は四年の間に色々出版もされているはずだし、あくまで私の個人的な備忘録のようなものとして振り返る。
震災のことに関しては何回かmixiの日記には書いているが、ここでも改めて書いておきたいと思ったので。
なるべく感情は入れないようにして(それを入れるとキリなく長くなるので)、時系列で起こったことと私の行動・思ったことを感傷的にならず淡々と書いていくようにしたい。

 
仙台市若林区の内陸の方の分譲マンション(の賃貸)に住んでいた。
ちょうど妊婦健診の日(26週)で、産婦人科から帰宅し、『ミヤネ屋』を見ながらこたつに入ってご飯を食べていた時だった。寒い日だった。
突然揺れ始めたと同時に携帯が鳴り、テレビでも緊急地震速報が鳴った。
揺れがかなり強いので最初は立ち上がり何かを押さえようとした。
が、更に強くなり恐怖を感じ、こたつに頭を突っ込んだ。こたつは消えていたが、グラッと来たときに自分で切ったのかもしれない。

物凄い長い時間に感じた。
こんなに強い揺れは生まれて初めてだったし、お腹に息子がいるときにどうしてと思った。テレビの音が消えているのが分かり、停電したんだな・・・と頭の隅で思った。
こたつで目をつぶった闇の中、ガシャーン、ガチャーンという音だけが耳に届いていた。何かが落ちまくっているらしいと思ったが、何なのか予想できなかった。
とても長い、激しい揺れだった。
「もしかして死ぬのか」と思った。本当に恐ろしく、こたつの中でこたつに入りきらないお腹を押さえて「おじいちゃん、おばあちゃん、助けてください。どうかこの子を守ってください」と口に出して祈りながら泣いた。

ようやく揺れが収まった後も5分くらいこたつの中にそのままいた。ひとまず過ぎたことを確信し、こたつから出た。
幸い我が家では大物家具は倒れなかった。小物や固定電話やキッチン調味料などは全部床にひっくり返っていたが。
どうしようか・・・とりあえず外に逃げた方がいいのか。それともここに留まっていた方がいいのか。
しばらく呆然としていると、玄関からガチャガチャという音がし、夫が飛び込んできた。
どうしてとびっくりしたが、たまたま日帰り出張から車で帰ってきていたところで、地震が起きた時にはちょうど家から遠くない場所の高速を走っていたので素早く駆けつけられたらしい。
「すごいことになっている。ドアも開かなかった」と言いながら、私を起こし、ここを出ようと言った。私は促されるままとりあえず妊婦健診に持って行ったバッグとコートをそのまま掴んで家を出た。
夫が言っていたことの意味はすぐわかった。玄関の鉄のドアが歪んで開かなくなっていたのだ。蹴り飛ばして開けた。
マンションの四階から階段で下へ降り、車に乗った。

まず、一番近所にある母のパート先に向かうことにした。

外は非日常の空間と化していた。
交差点の信号は止まり、ガソリンスタンドのガラスや看板は割れたり下に落ちたりしていた。
「まさか自分がこんな経験をするなんて・・・」と思った。ただ呆然と窓の外の光景を眺めていた。

パート先に着くと地震のため責任者以外皆帰したとのことで、母ももういなかった。
そこから近い妹の住むマンションに向かった。

妹の家は大変な惨状になっていた。玄関に積まれていた大量の靴の箱が邪魔をして中へ入れないww笑い事じゃないが、物が多い上に片付けられない人だ。足の踏み場もないどころの話じゃなく、夫も私も靴のまま物を踏みながら家の中に入った。
着いた時に妹は「〇〇(飼い猫)がいないの!」とパニックで、必死で皆で探した。ベッド下で無事見つかり、ホッとしてキャリーバッグに入れる。
そうこうしている内に妹の旦那も帰ってきた。

とりあえず私の実家へ行こうということになり、夫は会社の様子を見に行きたいというので、私・妹・妹の旦那の三人は先に妹旦那の車で実家へ向かうことにした。
「ここで夫と離れたらもう会えないかもしれない」という根拠のない不安が湧いたが、私のそういう勘が今まで当たったためしがないことと、身重なので皆のそうした方がいいという意見に納得し、そうした。
このあたりで16時過ぎだったような気がする。定かではない。

今も映像で出るが、仙台市中心部は大渋滞だった。
普段も渋滞しているのがデフォだが、さすがに異状だった。ほとんど止まっていて時々ノロノロ走る、という感じだった。
更に、走っていても余震の度に車が持ち上がる。
車内ではラジオを聞いていた。「荒浜に数百人の遺体が打ち上げられ・・・」という言葉を覚えている。
どうなっているのか、何が起こっているのか、地震に遭った当事者の私たちには全く分からなかった。『とにかく凄い地震が起きたらしい』『震度7らしい』。それ以外の詳しい情報が分からない。ラジオで津波が来たことも言っていたが、もちろん、あそこまでの大惨事になっているとは思いもしていなかった。

郊外にある実家に着いたのは18時すぎだろうか。よく覚えていない。
父が既に帰宅していた。会社で地震に遭って急いで帰って来たらしい。
母はまだだった。
妹旦那は私と妹(と猫)を下ろし、自分の経営する店へ行くと言って再び市中心部へ戻って行った。

山側にある実家はほとんど被害がなかった。周囲も被害は見られなかった。停電はしていたが、水は普通に出た(これは有難かった)。
室内飼いの三匹の猫たちも無事だった。
暗くなっていく家の中で父が出していたろうそくをつけ、ラジオに耳を澄ませた。
母と夫の無事を願った。

20時頃、夫が到着する。安堵した。四人で母の帰宅を待つ。

その後、母がやっと帰宅した。23時だった。これははっきり覚えている。
パート先を出て自転車で私の家に来たが、いなかったのでそこに自転車を置いてバスに乗ったらしい(つまり完全な行き違いだった。私たちが車でパート先に向かっている時に歩道を注意して見ていれば母を見つけられていたかもしれない)。それから何とかバスを乗り継いで帰って来れたと。普段なら1.5時間くらいだと思うが、6時間かかったことになる。
この時に、とりあえずここに住む身内の全員の無事が確認できた。心からホッとした。

翌日も相変わらず電気は止まり、携帯も繋がらない。
朝には雪が積もっていたから、震災当日は本当に相当寒かった。

ガソリンに余裕のある父の車で私や妹の家に行き、荷物や使えそうなものを持ってくることにした。
先に私のマンションに行くと郵便受けになんとその時購読していた新聞が配達されていた(驚くべきことです。河北新報の素晴らしい底力!)。
この新聞で、初めて私たちは今回の地震の概要を知ることができた。
見開きで津波に襲われた写真があり、それが初めて今回の地震の被害を「画像」で目にした瞬間だった。
ラジオで耳から聞く情報を頭の中で想像していたが、「画像」の衝撃は凄まじかった。「百聞は一見にしかず」は正しい。目から入ってくる情報は圧倒的だった。


郵便受けに配達されていた3/12(土)付の河北新報

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言葉を失った。



続き→東日本大震災の記憶(2)




 

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