願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

「自分の中にない理想の人」に本気でなるのは苦しい

自分の中にない、自分じゃない「自分の理想とする人」に本気でなろうとするのは苦しいと思う。

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本気で、とわざわざつけたのは、本気じゃなければ楽しい場合もあるからです。
例えば私は昔から常に「普通」に憧れ、周囲から「普通の人」に見られたい(実際は普通じゃない方の)人間なので、「普通の人」の振りをして「普通の人」として扱われるのはとても心を落ち着かせます。

なのでそういうことじゃなく、普通によく聞く「こういう人になりたい!」と努力してなろうとする状態 のことです。

ぶっちゃけ自分がそういう人間だった。
何十年もそうやり続けて、結果的に心を疲弊しました。
本来の自分とかけ離れているものになろうと努力することは、結局は本来の自分が一体何者なのか分からなくなるというアイデンティティクライシスを起こすことになりました。
自分が本当は何が好きなのかも分からなくなりました。
実は今もまだ、それを取り戻す長い作業の途中のようなもんなのです。

「自分が理想とする人の真似をしよう」
「理想の人物像があるならそれになったつもりで行動しよう」
そうすれば次第に本当に理想に近づいていく、という言い方をよくします。

そしてそれは、ある意味では正しいと思うのです。

だから全否定をする気はない。

でも、人間はそうそう持って生まれた自分が変わったりしません。

簡単に変わったらそれこそ大変なことですw

持って生まれた自分自身、そして様々な経験や衝撃を受けながら生きてきた中で作られていった自分自身、それは唯一無二の自分です。
それが簡単に変わったら・・・恐ろしいことだと思いませんか。
それはいわゆる洗脳、マインドコントロールの恐怖ですよ(゜д゜;)

早い話、向いている理想と向いていない理想があると思うのです。

向いている理想ならいい意味で努力して変わっていけますし、自身も本当の意味で満ち足りていくことでしょう。
けれど向いていない理想だった場合、私のように心が迷子になって終わります。

人間の心というのは、そう単純にできているわけじゃない。

思いやりや優しさ、モラル、そしてそれと相反する感情が同時に心にはあったりします。

前回書いた話(→心は自由。人は醜く、美しいもの。)もそうですが、こういうことを強く意識するようになったのは自分の経験からです。

ものすごく簡単に例えると、私は100%善人じゃないのに、100%善人になろうとしたって感じです。
人は善人でいなければならない、と思いこんでいた。
醜い感情が湧いた時、私は私を否定するしかなかった。

自分を否定し続ける行為というのは、想像以上に心を壊していきます。
自分を信用できない。自分を愛せない。自分を大切にできない。だから他人のことも大切にできない。
負のスパイラルですよねー。

「ありのままで」が支持され、次に逆にそれに対してバッシングすることが流行ったような風潮がありますね。
何にせよ日本人の自己肯定感が総じて低いということの表れだと思います。それが常に両極端な方に出てくるんですね。
他の国じゃもともとそんなこと当たり前以前過ぎて、こんなに話題になるような下地がないような気がします。

当たり前のことが確実に言えなくなってきている今の日本が私も心底恐ろしいわけですが・・・(軍靴の音が聞こえるとはこういうことなんじゃないかと最近思う。しかも私は決してリベラルじゃない)
まあ横道に逸れるので置いといて。
「ありのままで」はやはり正しいと思うのです。
それに共感し、それを求める人が多いということは、それほどに多くの人が自分はありのまま生きていないと感じ、そのことで苦しんでいるということです。

ただし、「ありのままの自分」を他人に受け入れさせる、という意味ではない。

あくまで「ありのままの自分」を受け止めるのは自分です。まずはそこからだ
(゜д゜)

自分が自分自身の「ありのまま」に気付くこと。
それを一旦まるごと受け入れること。

そこから全てが始まるんじゃないでしょうか・・・。

俺たちの旅はまだ始まったばかりだ!\(^o^)/(ジャンプだと最終回だけどw)

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