願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

心は自由。人は醜く、美しいもの。

私には「心は自由」という信念がある。
人の思惟、それ自体にはもともと善悪の観念はないと思っている。心で思う分にはどんなことだって自由であり、批判されるべきじゃない、というものだ。

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安倍さんは学校教育として「道徳」を強化していく方針のようだが、子供たちには、人間には醜い気持ちがあることを教えるべきだと思う。
人の心にはおぞましい感情があること、恥ずべき考えが湧くことがあること、自分の心にももしかしたら誰かを憎んだり、理不尽に痛めつけたいと望む感覚が起こることがあること、そういうことを教えるべきだ。

その上で、自分の中のそんな醜い気持ちと戦う方法、逃げずに向き合う強さを身に着けることを教えるべきだ。その手助けを大人はするべきだと思う。

醜いものを「ないこと」にするべきじゃない。
醜さも、優しさも、美しい気持ちも、全部持っていてこその人間だと思う。

人は人を嫌う。
人は人を妬む。
人は人を憎む。
人は人を差別する。
人は、自分より劣っているものを見下す。
人は、自分の得のために他人の損を願う。
自分が幸せでない時は他人の幸せを願えない。
人は人を支配したい。

これらは全部「人々が幸せに暮らせる社会」にとって良くないことだ。ない・しないに越したことはない。
だけれど、人にはどうしてもそういう性質があるのだ。
「ある」こと自体を否定してはだめだ。もともと人間に「あるもの」なのだから、「ないこと」にしてはいけない。
見ないふりをしてはいけない。
「ある」のに「ない」ことにしてそれを基盤にして話を進めるから、おかしなことになるのだ。どこかで大きな(そして悲惨な)しわよせがくるのだ。

例えば、いじめはいけない。
だが、人間は、特に子供は、変わっているものをあげつらい攻撃する性質がある。からかう性質がある。純粋にそれを面白がる性質がある。人は本来の性質において、放っとくと自然にいじめをしてしまう生き物なのだ。
だから、人にはいじめをしたがる性質がもともとあることをまず教え、その上で「でも、いじめをしても駄目だ」と改めて教えなければならない。
どうしたって人は他者を攻撃する。自分が生き残るための本能がベースにあるのだから、それ自体は生き物の宿命だ。
でも、それを「しない」選択を自分で選ぶんてある。意志を持って。人間だから。それが「良くないこと」だと理解できる力のある人間だからこそ、それを「しない」という選択を意志の力を以て行使しなければならない。
大人は子供を、それができる人間に育てなければならない。そう思う。

汚いものをないことにしないで欲しい。
見ないふりをしないで欲しい。
自分の中にある醜い自分から目を逸らしたら、真実は何も見えなくなる。

人は汚い。

でも、それだけじゃない。

自分の中にある醜いものと対峙しようとする覚悟は、充分美しいじゃないか?

思考停止しないこと。
自分から逃げないこと。
真実を見ようとし続けること(見えなくてもいい)。


余談だが、よく「そんなこと考えるなんて信じられない」「そんな思いがわくこと自体どうかしている」という言い方に出会うことがある。

私はいつもアホか・・・(゜д゜)と思う。

「思うこと」自体を禁止しようなんて馬鹿げてるwwwwwwwwwwwwww気持ち悪い。

そんなことができるわけがない。
人間は聖人じゃない。命に固執する生き物だ。本能の欲望がある。
心は自由だ。どんなことだって思いとして心に浮かんでしまう。
それ自体を否定・規制するなんて、空恐ろしいマインドコントロール以外の何物でもないわ(゜д゜)

汚い感情は誰にでも湧く可能性がある。
人の心は確かに汚い。
でも、それが「汚い」と分かる(感じる)のは、美しい心も同時にあるからじゃないのか。

本当に気持ちが悪い。
「それは良くない感情だから、そんな感情を抱いては駄目」なんて、本当に吐き気がする。恐ろしい思考停止だと思う。