願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

年末のどさくさに紛れてライトファンが椎名林檎について今更語ってみた(こっそり)。



まあ大体予想できたと思うんですが、
椎名林檎東京事変も)が好きなんですよね。

 

と言っても別にコアなファンではないんですけどね。なので、「今更!」というネタばかりかもしれません。すみません。
時々思い出しては「ああ、でも私やっぱり好きだなー、椎名林檎」と再確認する、という感じです。
ふと思いついたので年末の備忘録的(?)に好きに語ってみたよ!
コアなファン(普通のファンでも・・・?)なら知っているかもしれない内幕や真相とかは一切知りません。あくまで私が個人的に感じたままを元に書いているので、見当違いのニラニラポイントがあっても許してちょ☆

椎名林檎の凄さ


この人が凄いなと思うのは、その歌声や世界観なんかの個性はさておき(こういう部分は好みだからね)、この人ほど「大衆が椎名林檎に求める価値とイメージ」と「この人自身が自分に求める世界観」が完璧に釣り合い一致している(ように見える)人はそういない、というところだ。

ショウガール、魔都上海、香港マフィアの女ボス、昭和のテレビアニメシリーズ(ex.バビル二世)、クラシックなカートゥン(ex.トムとジェリー)、大正&昭和レトロ、モダンガール、娼婦、花魁(女郎)、着物、赤というより紅、あるいは朱色の楼閣・・・

メンヘルこじらせ女にありがちな、「こういう女性の世界観」が私も大好きなんだけれど、もちろん、こじらせ中年独身女性作家にたまにいるように、現実の自分の身にそれを追い求めたりする気にならないよう注意深く生きているんだけれども(私は『現実世界ではこよなく自分自身のリアルを認識していきたいよ』派です)。

基本、オタ女子はみんな好きだからね、こういう世界w
だからこそ蜷川実花が映画『さくらん』(安野モヨ子原作)に林檎を使った。(悪い意味は一切抜きで、蜷川実花はオタク腐女子の典型的感性だと思うんだよね。一般というか男性向けだとAKBの『ヘビーローテーション』のPVが分かりやすいよね。もちろん好きです!w\(^o^)/)

完璧な世界観、というときゃりーぱみゅぱみゅもキャラパフォーマーという視点で似ていると思うけど、ちょっとまだ及ばない。・・・そう思うのは私が林檎ファンであってきゃりーファンじゃないからなんだろうけど。いやきゃりーも嫌いじゃないよ!PVが(本人が登場人物としてきちんと出ている)映像作品としてよくできているアーティストは基本的に好きです。

椎名林檎の世界を支える大前提と、降ってわいた不安。


ところで、しかしつべで久しぶりに林檎のMVを眺めていて、ふとある思いというか疑念が湧いてきた。
それは、この先、この椎名林檎の世界観が、大衆にいつまで正しく受け止められるだろうか・・・というもの。


それはこの動画につけられたコメントを目にしたのがきっかけだった。

これに「ディズニー」というようなコメントがあったのだが、これに違和感を抱いたのがきっかけだ。

椎名林檎の世界は、いわば「壮大なパロディーの世界」

この時点で、そもそもパロ好き傾向の強いオタクという人種に人気なのは自明の理なんですよねw(´∀`)←パロ好き傾向の強いオタクという人種の人。

上に私が椎名林檎と言えばと挙げた世界観は、どれもすべて大衆(もしくはそっち好みの人々)にイメージが確立されている。
大衆にもともとあるイメージを媒体に使い、且つその世界を完璧に(大衆のイメージ通りに、という意味)演じてみせることで、逆に自分の個性と価値を際立たせる、という手法を取っている(ように見える)。

この手が使えるためには、いわゆる元ネタになるものを大衆が広く認知しているという大前提が要る。
例えばこの『真夜中は純潔』。


一般にも人気が高いPVだが、これが人気なのは、見ての通り30後半~40代が子供の頃にリアルに見ていた昔のテレビアニメ風の演出になっている、ということだ。
子供時代という誰もが感じる郷愁の記憶と、今よりも色々な面で長閑で混沌としていた時代が特有としていた暗い闇のようなおどろおどろしさ(エログロちっくな)・・・が懐かしく、そして改めて新鮮に胸に甦るからこそ魅力を感じるのではなかろうか。

上で敢えて「(バビル二世)」、と書いたが、私はバビル二世という単語がすぐ頭に浮かんだからです。絵面的な意味でね。設定としては不二子ちゃんぽいけどねw 人によって違うだろうけど。
あの猫とか絶対ロデムですし。ロデムの形したロプロスですし、おすし。
悪役ボスはヨミと『プリンプリン物語』のルチ将軍を足したような感じですし、お寿司ー。(あ、そういうものを入れたりわざと強調したりデフォルトみたいだったり敢えてのデザインということはもちろんよく理解しているよ!)
・・・まあそんなことより、大事なのは、バビル二世や妖怪人間やデビルマンエイトマンマジンガーZガッチャマンボルテスⅤや魔女っ娘チックル・・・なんかを例えば子供時代も別に見ていなかった人だとしても、「こういう絵面はあの時代のアニメだ」ということが肌感覚として分かるかどうか、なんである。

それらが(知識として以外)分からない人ばかりになった時、・・・それでも林檎の世界は一部には支持され続けるだろう。年寄りや懐古厨だけじゃなく、一般の若者にも。でも、それは林檎の世界の本来の理解ではないんである。きっと。
しかしもちろん、作品の愛し方は常にそれを受け取る側の自由な感性に委ねられるものだ。作り手の感性の押し付けは蛇足以外の何物でもない。

でも、ディズニーじゃない。


・・・でも、言わせて欲しい。
PV『不都合な身体』の話に戻すが、

ディズニーではない。そう、あれは、仮にそういう言い方をするならば、 "トムとジェリー" なのだ・・・と。

このPVのクラシカルなアメリカのカートゥーンアニメは、ディズニーではなく、我々世代にはどちらかと言えばトムとジェリーと言われた方がしっくりくるんじゃないか、と思ったんですよね。
この映像作品から私(と私の世代)が感じるのはディズニーの "闇のない" 明るいカートゥン世界ではなくて、ちょっと毒々しい感じが隠れている(いそうな)妖しい不安感。

それはトムとジェリーの「真ん中の話(真ん中作品)」(※)を「今日はどんな話だろう」とドキドキしながら見ている時のような・・・

どこかに潜んでいる予感のするブラックジョークな禍々しさ、ダークでエロティックな雰囲気を暗示させる演出への高揚感・・・
可愛いんだけど、どこか見る物を不安にさせる、可愛いんだけど、どこか何かがおかしい感じ。どこかがこわい。サーカスの妖しさ、「谷山浩子的」なドキドキ・・・

そんなものを頭の片隅に想起させる感じ。

アニメに実写の人間がはめ込まれているのも、やはりトムとジェリーの 「真ん中の話」 が大好きだった人には垂涎ものの懐かしさですよね。
そもそも、アナログチックなアニメに実写の人間がはめ込まれている・・・というのが、そこはかとない恐怖、見ている側に足場の不安感をもたらす重要なポイント。フィクションの世界に閉じ込められるのは万人にとって恐怖のイメージです。(NHKみんなのうた」の『メトロポリタンミュージアム』に寄せられるトラウマ意見の多さ!w)

ラストのアイキャッチまでMGMのライオン(&トム)モチーフに見えてくる。

(※)「真ん中の話(真ん中作品)」・・・一般的に言われる日本での放映時、トムとジェリーは30分番組で三話構成で、その「真ん中」にあたる二話目はトムやジェリーが登場しない、「トムとジェリー」の通常の世界から独立した別の世界観の話であることが多かった。犬のドルーピーや熊のバーニー等他主人公の話も多いが、特別なキャラクターが登場しない「ちょっとした小話」的な作品もあり、それらは特に 「真ん中の話」 と呼ばれ一部のファン(特に私)にはカルト的根強い人気がある。ググると色々出てくるよ。

wikipedia:トムとジェリー




しかし、コメントをした人はあれをディズニーだと認識したのだろう。しかも堂々と公にコメントをしているということは、それを疑う余地もない、当たり前の認識なのだろう。
恐らく、同じ世代の人には共通だとみるべきだろう。

恐らく、"一番身近に肌感覚として記憶しているカートゥンアニメ" と言えば "ディズニー" しか出て来ない世代なのだ。

地域にもよるから全然正確じゃないが、主に北海道と東北で過ごした私の体感から言うと、トムとジェリーバックスバニーチキチキマシン猛レース等の "非ディズニー" カートゥンアニメ(大体主にワーナーですね)は、ある年代にほとんど放映されない空白期間がある。しかも結構長いと記憶している。しかも輸入カートゥンアニメだけじゃなく、国内のアニメの放映もガクンと減り、どこをつけても子供向けのアニメがほとんどやっていない・・・そんな印象の強い時期だった気がする。アニメ衰退期というような。
記憶は曖昧だが、『日本昔話』や『ハウスこども名作劇場』、夕方のNHKのアニメ枠(『お願いサミアどん』とか)なんかが終了した頃がその始まりなんじゃないか。

そして、ちょうどその時期に子供をやっていた世代の人は、要するに、見ていないんだと思うのです。アメリカ製カートゥンアニメを。

しかし、いかにアニメ衰退期にあっても現代ディズニーの本領は、映画。テレビでアメリカ製カートゥンを見たことのない人でも、映画でのディズニーアニメはよく知っている。
また、地上波で放映しない代わりに専門チャンネルが出てきた時代でもある。詳しくは分からないがディズニーを放映するチャンネルがその頃からあってもおかしくない。今もそうだが、非ディズニーアニメは視聴できる機会がなくなっても、ディズニーアニメは接する機会が消えることはほぼないんである。

それならば、アメリカ製カートゥンアニメと言えば当然のようにディズニーしか出て来ないはずだ。そもそも、ないのだ。ディズニー以外のアメリカ製カートゥンアニメの視聴体験が。

と言って、「昔のアメリカカートゥンっぽい雰囲気のもの=ディズニー」と認識することが悪いということはない。古き佳きディズニーも懐かしく、私だって大好きだ。つーか大体、あの時代のアメリカカートゥンアニメの絵柄や雰囲気なんてどれも似通っているんじゃないか。

・・・しかし、それでも尚、その感覚の「違い」こそが決定的なすれ違いというか、重要な乖離ポイントである気がしてしまうのは何故だろう。

椎名林檎の世界観は「古き佳き」をオマージュにしている、とも言える。

「古き佳き」が何なのか分からない世代になれば、そのオマージュ、パロディは成立し得なくなってしまうのじゃないか・・・

さっきから二転三転しているが、しかし、反面それでも大丈夫なんじゃないかという気もする。
なぜなら、例えば魔都上海、アメリカのショウガールなんかの時代は大体1930年代が舞台だ。
当たり前だがその時代を私は知らない。生きていない。上海は行ったことがあるけど、運河の近くの街路の隅に魔都の残り香を嗅いだだけだ。
花魁が生きていた時代も知らない。
それと同じように、イメージを共有さえできていれば、椎名林檎の世界は支持され続けていくだろう。
本来の理解には遠く及ばないとしても。

・・・以上、なんか勝手に語ってみました。


・・・はい、当初はさらっと小ネタ的に流すはずが、気付いたら引き返せない感じになってここまで書いてしまいました。
大分今更感がぷんぷんですが、まあ・・・許してちょ。他の人の考察とか一切見ていないので、全然見当違いだったらすみません。「なんかライトファンがいきがって語ったら思った通り斜めなこと言ってやがる」と思われるかもしれません。恥ずかしいので今後も他のコアなファンの方の考察は見ないようにするつもりです。
考察なんて一生懸命書いて上げたら終わり、基本書き捨てだよね・・・(違う)。

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