読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

人は死なない、ただ永遠に「死に向かい続ける」。

哲学・思想 自分語り 世間話

・・・えーと、こういう話に興味のない人には何を言っているのか全く分からないと思うんですが、また最近の個人的ユリーカだったのでさらっとだけ書いておきます。
ちなみに私は哲学を私的ライフワークとしているので、大抵常にこういう「死とは・・・」「生きるとは・・・」「無限とは・・・」ということを考えながら生きています。
考え過ぎて家事が手に付きません。男性ならそういう変わり者として許されることも多いような気もしますが、およそ女性には向いていない性質じゃないかと思います。家事育児しながら哲学するのは大変です。刺激的だけど。
考えたくて考えているわけじゃなく、勝手に考えてしまうんですよね・・・。自分ではどうすることもできないんです。
まあ現実ではちょっと変わった人というか、困った人の部類に入りますよね・・・。まあどーでもいいんですけど!\(^o^)/

 

昨日、妹と電話で話していて気付いたこと。

それは、人は死なない、永遠に死に向かい続けるだけなんじゃないか・・・ということ。
ブラックホール特異点とか、ウサギは亀に追いつけないゼノンのパラドクス系の話が好きな人にはピンときてもらえるかもしれないと思うんだけれど。

あ、前提条件として生きている間だけを「人」と定義するなら、ですね。(死んだ後は「人」ではなくなる)
人は死にますが、その「死」を自分で認知することはできない。死んだ瞬間には「人」でなくなっているので(自我が消失しているので)、「人」の認知は及ばないからです。
となると、限りなく距離は近付くものの決して亀を追い越せないウサギのように、「人」は、限りなく「死」に近付くことしかできないんじゃないか。
「人」としては永遠に「死ぬ」ことはできない。
主観の中で。
客観では死んでます、もちろん。

なぜこんなことを閃くに到ったかというその時の話題のもともとの始まりは、「自分が死んだ後のことが気になるかどうか」という話でした。
妹はとても気になる人で、自分が死んだ後に自分の話をしないで欲しいし、自分のことはすぐに忘れて欲しいらしい。もともと自分の知らないところで自分が話題になるのを物凄く嫌悪するひと。
私には正直その感覚は分からない。自分が死んだ後の世界なんかどーーーーーーーーでもいい。
だって自分は死んでるから。自分には知りようがない、分かりようがないことだから。
自分が死んだ後で自分について何を言われようが、思われようが、それを認知して恥ずかしがったり苦悩したりする自我自体がもうないんだから、どーでもいい。どーでもいいというより、私の中に存在しない分野の思考。そんなこと考える意味がない。もともと、自分の知らないところで自分が話題になることには関知しない。他人には他人の自我があり、それを私がどうこう介入することはできないし、嫌だとかいいとかそんな意思が出てくること自体が私の感覚にない。

世界には世界の意思がある、というか。

私の意思がついえたら、そこで世界と私のリンクは切れる。私にとって単にそれだけのことなんだと思う。世界は世界。私は私(消えているけど)。
そういう意味で、私の世界観は自分の中でも矛盾しています。私が消えれば世界も消える(と同義)、でも、私が消えても世界は勝手に続いていく(私に関係しないところで)。どちらも私の中では真なのです。
あ、念の為ですが、「自分が死んだ後のことはどーでもいい」というのは、もちろん「だから後始末よろしこ」とか「残された人がどーなったって構わない」という意味ではなく、あくまで自分に対して「後の世界がどういう対応をしても構わない」、という意味のことなので、誤解しちゃいやん(´ρ`)

妹は一番近い他人という感じで、同じ親から生まれ同じ環境で育ったのに(厳密には違うけど)きょうだいであってもここまで違うかという風に感じます。
でも確かに似ているところや同じ感覚があり、私にとっては最も大切な親友のような存在であるので、きょうだいというのは得難い貴重な存在だと思う。
息子には経済的な理由できょうだいを作ってやれないが、それは本当に申し訳なく、苦しく思う。


f:id:manmaru14:20110728125205j:plain


無限、フラクタル、とかがキーワードになる画像で思い浮かんだのがガウディ。
海外旅行に縁のない私が、それでも死ぬまでに一度は行ってみたいと思っている国がスペイン。街並みも好きだけど、何と言っても、海外で自分の目で見てみたいと一番願っているのがこのサグラダファミリア


広告を非表示にする