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願わくばまんまるく、徒然。

願わくば道端の石のように穏やかに、永遠の傍観者に。

暗いのも、ドロドロも、グレーにしとくのも、大事。

世間話 自分語り 真面目な話 哲学・思想

私はダメな方の人間なので、明るくポジティブなものには懐疑的です。

曾野綾子(最近老害っぽくなってきたけど)や中島義道の考え方に賛同しているので、そういう「光のあたるところにいるもの」に相対した時、それに潜む暴力性と浅はかさにまず身構えてしまいます。

例えば、性格や気質は個性だ。
長所・短所に関わらず、その人のアイデンティティを構成する大切な要素だ。
考え込むことが宿命づけられた人はいる。すぐに傷ついたり、落ち込んだり、周囲に気を遣って疲れてしまう、という人もいる。それは一つの個性だ。本人が好むと好まざるに関わらず。
それを、「深く考えるなよ」「お前は悩み過ぎなんだよ」「もう気にするな」・・・等々と、(大抵善意から。ここがクセモノ)簡単に否定・切り捨てることは一種の暴力だ。

どうも、この世はとかく「明るく前向き」「諦めない」「楽しけりゃいいじゃない」「深く考えない」「議論しない」「スパッと切り替える(切り捨てる)」が正義だとされすぎです

私はこれに真っ向から刃向いたい少数派です。

 

いや、「明るく前向き」「諦めない」「楽しけりゃいいじゃない」「深く考えない」「議論しない」「スパッと切り替える(切り捨てる)」・・・そういう考え方自体はいいと思うんですよ。全然悪くないです。
自分で考えた結果そこを目指して努力することも素晴らしいことだと思う。

でも、そうじゃない人に強要する、そうじゃないことを卑下する、ということになると、それは私にとっては単なるバカです。浅はかすぎる。もしくは青い。限りなく。限りなく透明に近いブルー
自己中心すぎます。

自己中心、これも否定はしません。

でも、そういう人だけでは世界は絶対に成り立たない。社会生物である「人間」の世界は。

他者への思慮をきちんと置き、そこと自我の兼ね合いに苦しみもがき、でも投げ捨てることをせずに思考錯誤(造語です)し続けることによってのみ、人は他者と共存できる。
悩み、もがき、考えることを放棄しなかった人たちによって世界は進んできた。
私はそう考えます。

めんどくさいことは考えない、今を楽しく過ごせりゃいい、考え方や価値観の違う人とは議論しない、そもそも議論なんか必要ない、・・・こういうスタンスはカッコいいです。一見カッコよくて、でも、実はそういう人ばかりでは世界は機能しない。

もちろん、そういう人が存在してくれることは大事です。

そういう人はそもそも世界なんか知ったこっちゃない。自分に関係のないところの世界なんてどうでもいい、というのが大抵のスタンスです。「机上の空論」「おこがましい」という言葉で正当化することも多いです。
で、別にそれはそれでいいのです。

ただ、自分たちとは正反対の、“そうじゃない”人もいるからこそ、バランスよく世界は回っている、ということに “そういう人” たちは気付いていない。もしくは気付いてない振りをする。そういうことに気付いてそれを話題に出すことはカッコ悪いから。
そういうところが私は嫌だ。
ものすごく無神経だと思う。無神経なことに気付いていないってとこがまた嫌だ。

世間でカッコイイとされていることをしている側の自分たち以外の価値観の持ち主に対する無神経な上から目線は、オタクから見た時のリア充の眩しさに通じるものがあると思います。何となく。
一人で吉野家入れる女子が「何が恥ずかしいの?」って吉野家入れない他の女子にわざとなのか天然なのかわからないきょとん顔で言うような感じです。
何にも悪くないんだけど、何故か首筋がざわざわする。ざわ・・・ざわ・・・

まあ、多分それは私の心が薄汚れているからでしょう。
・・・オーケイ、いいってこった。気にすんなorz


えーと・・・まあ何が言いたいかというと、光だけの世界なんて存在できないってことです。一周回って新鮮な言い方をするなら。影がいてこそ、ってやつです。

光に憧れ、光の下で活動したり楽しんだり努力したりし、影の中で疲弊を吐露しトロトロ休む。・・・
それでいいんじゃないでしょうか(゜д゜)
どうでしょうかね・・・
とにかく、どちらか片方だけを礼賛する人を私は信用しない。
底が浅いと思うから、っつー話です。

まあ私なんかに信用されなくたってなんの弊害も影響もないわけだがw(´∀`)

何の弊害も影響もないついでにもっと言うと、私は答えが出ない話をすることに意義がないと思わない方です。価値観や考え方の違う人と議論することは無駄だと思わない。
むしろ、そういうようなことこそが、実は人間というものにとって最も大切な、有意義なことなんじゃないかと思う。
きちんと「議論」をすることは実際はとても難しいことだけどね・・・。意見の押し付け、叩き合い、罵り合いになってしまいがちだから。それだから議論を避ける、という考えには私も共感します。
それくらい難しいことなんだよね。だからこそだ。
他者(人間・生き物に関わらず自我の外の領域にあるもの全て)を認識し、理解すること、たとえできなきとも理解しようとすること、それこそが、うまく言えないけど、人間に与えられた最上レベルの課題というか、人間にとって「人間足り得る、その一番核になる部分」なんじゃないかと私には思えて仕方ないんですよね・・・。

いや、できないよ私は。ダメダメだもん(´∀`)w

でも、それが大事なことだとは思っている。修行中。全然まだまだ。もう来世に期待。

 

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 どうもこの世が生き辛い・・・と感じている私のような人へ、「戦う哲学者」中島義道を是非。

私の嫌いな10の言葉 (新潮文庫)

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ところで、ネガティブの最右翼とされる「嫌い」という感情も、人にとって大事なものだと私は思う。「何が嫌いか」というのは「何が好きか」よりも時に雄弁にその人を語る。
「何が嫌いか」もまたその人の大切な個性だと思う。
嫌いなものを語るなんてカッコ悪い、無駄、アホらしい、人間として低俗、という風潮は全て「浅はか」という一言で片づけさせてもらうよあたしゃ・・・。
とても薄っぺらく感じる。


人間なんてドロドロしてなんぼだと思うんだよ。
サッパリ生きたくてもそう簡単にはいかない、でいいじゃないですか。自覚して、全身全霊もがいていれば、それで充分じゃないですか。
白黒つけられないことはグレーでいいじゃないですか。見方を代えればどっちの気持ちも分かるってことばかりじゃないですか。
相手の気持ちを想像してみようってACでも言ってるじゃないですか。なんなんだこの国はアスペばっかりか?(゜д゜)

悩んだって迷ったって、時にはグチグチ言ったっていいじゃないですか。
何でもスパンと割り切って前へ進むって、気持ち悪いです。ロボットかマインドコントロールされた人みたいで。

割り切れないのが人間です。
分かってたって、できないのが人間です。
そんな自分が嫌で、でも諦めて、また立ち上がって、でもまた挫けて・・・ってのが私の好きな人間らしい人間です。

白黒つけないでグレーにしとく。時と場合によって悪い側は違うから。
まとめて判断下せないことは分けて考える。これはこれ、それはそれ、で。
何もかもをただ一つの正義、ただ一つの論理で一気に片付けようとしないで欲しい。
それは暴力だよ。暴力の自覚がない分一番タチの悪い。

まー要するに度量は器量だって思うんですよね、私は。人というものにとってさ・・・。


 ↓身も蓋もないタイトルが素敵w

善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか 救心録 (祥伝社黄金文庫)

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